AIに頼りすぎない暮らし|40代から見つめ直す“人の心”

AIに頼りすぎない暮らし|40代から見つめ直す“人の心”

「ここまで任せていいのだろうか」

AIが暮らしの中に入り込むようになって、もう随分経つ。
調べものも、文章を書くことも、買い物のおすすめさえもAIがしてくれる。

私も仕事柄、毎日のようにAIと向き合っている。
その便利さには本当に助けられている。
でも、ふと手を止めたとき、胸の奥に小さなざわめきが生まれる。

――ここまで任せてしまっていいのだろうか。

AIはたしかに効率的で、
私の“やりたいこと”をすぐに叶えてくれる。
けれど、“どう感じているか”までは、まだ分かっていない。
その曖昧な心のゆらぎを、AIに伝えられる日は来るのだろうか。

その問いが、いつも頭の片隅に残っている。

AIには表せない、ぬくもりの在処

私がどうしてもAIに任せられないと思うのは、人のあたたかさだ。

友人との会話の中に生まれる、少しの間(ま)。
家族と食卓を囲んだときに流れる、柔らかな空気。
そして、犬が膝に顔をのせて、
「ここにいたい」と静かに訴えてくる、あのまなざし。

それらはすべて、言葉では説明できないもの。
数値にも、ロジックにもできない。
でも確かに、そこに“生きている気配”がある。

AIは、言葉を生成することはできても、
その「言葉が生まれるまでの沈黙」までは表現できない。
そして、その沈黙こそが、人の心の深さをつくるのだと思う。

効率化の外にこぼれ落ちるもの。
余分で、無駄で、だけど心に沁みるもの。
そのかけらを、私は愛おしいと感じてしまう。

便利さと、心のあいだ

40代になって、体も心も以前より揺らぎやすくなった。
理由もなく落ち込む日があり、
気づけば、ただ「効率よくこなすこと」ばかり考えている自分がいる。

そんな時こそ、AIに頼りたくなる。
でも、すべてを任せてしまったら、
“自分の感情”がどこかに置き去りになってしまいそうで怖い。

だから私は、意識して“考える時間”を残している。
すぐに検索せず、
すぐに正解を出さず、
まずは手帳に書いてみる。

文字にすることで、思考が少しずつ形を変えていく。
不思議なことに、答えを探していたはずが、
いつのまにか「問い」を大切にしている自分に気づくのだ。

頼りすぎない暮らしは、
心の中に“余白”を残してくれる。
その余白が、今の私には必要なのだと思う。

養生としての「心を見つめる」

東洋医学には「養生(ようじょう)」という考えがある。
それは、体をいたわるだけでなく、心を整えることも含んでいる。

足りないものを補い、余分なものを手放す。
焦らず、背伸びせず、自分のペースで生きる。
その積み重ねが、心の安定を育てる。

AIとの関わり方も、それに似ている気がする。
AIをうまく使いながらも、
最後に残しておきたいのは「自分の心」。

ゆらぎやすい40代だからこそ、
便利さに流されすぎず、
自分の“感じる力”を信じていたい。

余白を楽しむということ

私はその余白を楽しむために、
日常にいくつかの小さな 習慣を持っている。

夕方の台所でお茶を淹れて、
湯気の向こうにぼんやり空を見る。
洗濯物を取り込みながら、
風の匂いを感じて深呼吸する。
ノートにマスキングテープを貼りながら、
少しずつ心を落ち着けていく。

ほんの短い時間でも、
それがあるだけで一日がまるく終わる。

最近はネットショップで見つけた
小さな雑貨たちも暮らしの彩りになっている。
届くまでの待つ時間すら、
日々のリズムに小さな楽しみを運んでくれる。

そうした「手で感じる時間」こそ、
AIでは再現できない、人の心の動きなのかもしれない。

便利さの中で、人の心を取り戻す

AIに頼ることは悪ではない。
でも、すべてを委ねてしまえば、
人の心が薄れていく気がする。

だから私は、
この40代という節目に改めて思う。

AIと共に生きながらも、
最後の判断は“心”で下したい。
正解よりも、自分の感覚に正直でありたい。

きっと、迷いながら考え続けることこそが、
人間の証なのだと思う。

そして、
この問いを手放さずに持ち続けること。
それが、私にとっての“心の養生”であり、
生きる力の源なのだ。

今日も小さな養生を。

Wrote this article この記事を書いた人

ミカ

手帳と暮らすミカです。 薬剤師・和漢薬膳師として、心と体の「めぐり」を見つめながら暮らしています。 40代を迎え、心や体の声に耳を澄ます日々。 手帳を開く時間は、私にとって小さな養生であり、静かな儀式です。 ここでは、ほぼ日手帳に綴る日々の出来事や心の揺れを通して、 「人間らしく生きる」ためのヒントを探しています。

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