
夜のリビングに、洗濯機の音が遠くで響いている。
食器を片づけ、子どもたちの寝息を確かめて、ようやく自分だけの時間が訪れる。
机の上に手帳を開き、ペンを握る。
今日も一日が終わった。
書き始める前のこの瞬間、少しだけ深呼吸をする。
一日を生き抜いた自分に、小さな「お疲れさま」を伝えるように。
手帳のページには、完璧とは程遠い言葉が並ぶ。
「疲れた」「もう少し頑張りたい」「今日は機嫌がよかった」
その一行一行が、私の“生きている証”のように、静かにページを埋めていく。
「整えるため」ではなく、「ゆるめるため」に書く
40代になってから、心と体のバランスを取るのが難しくなった。
朝は体が重く、昼には集中が途切れ、夜にはため息が出る。
無理をしているつもりはないのに、何かがすぐいっぱいになる。
そんなとき、私は書く。
頭の中を一度、紙の上に出す。
整った言葉でなくてもいい。
感情の温度をそのまま残す。
手帳の上では、誰に気を遣う必要もない。
“ちゃんとしなきゃ”という声が少しずつ遠ざかり、
かわりに「まぁ、今日もよくやったよね」と自分をゆるめる声が聞こえてくる。
整えるためではなく、ゆるめるために書く。
それが、私にとっての“手帳養生”の始まり。
手帳という「静かな避難所」
私は在宅勤務で、朝9時から夕方6時まで働いている。
オンライン会議ではしっかりした顔を作り、
チャットでは言葉を選ぶ。
誰もいない部屋なのに、いつも少し気を張っている。
ログアウトした瞬間、どっと疲れが押し寄せる。
家族の気配が戻る前のわずかな時間、
私は手帳を開く。
「今日、ちゃんとやれてた?」
「本当はどう感じてた?」
ペンを動かしているうちに、
胸の中のざわめきが少しずつ静まっていく。
書くことは、私にとって小さな避難行動。
誰にも説明しなくていい、自分の居場所だ。
続けるための「見せる仕組み」
日記を書くことを続けるのは、案外むずかしい。
私も、何度も三日坊主で終わらせてきた。
転機になったのは、
「一部をインスタに載せる」と決めたこと。
誰かが見てくれると思うと、
日記を書くことの優先順位が上がる。
けれど、それは“人のため”ではなく、
「昨日の自分に負けたくない」という
小さな約束のようなもの。
もちろん、すべてを公開するわけではない。
心の奥にある言葉は、誰にも見せないまま手帳に留める。
インスタに載せるのは、
その奥にある影を照らす、ほんの一片の光。
それでも、その行為が
私を「書く人」に戻してくれる。
書くことで、自分の輪郭が戻ってくる
手帳をめくると、
そこには何気ない日常が積み重なっている。
食べたもの、聞いた言葉、仕事のこと、
それらが時系列ではなく感情の記録として並んでいる。
後から読み返すと、
その時の呼吸や表情まで思い出せる。
「この日は無理してたな」
「この言葉が支えになってたな」
過去の自分が、未来の自分にそっと手を振っているようだ。
AIが何でも代わりにこなしてくれる時代に、
あえて“手書き”を選ぶのは、
感情の痕跡を残しておきたいから。
ペンのインクのかすれ、書き間違いの線、
その全部が、私の「生きてきた証」。
手帳は、未来の私を形づくる静かな記録だ。
夜が更けていく。
ペンを置くと、心の中にほんの少しの静けさが戻る。
それだけで、十分。
この手帳時間は、
何かを成し遂げるためではなく、
今日を生きた私をそっと撫でるような習慣。
40代というゆらぎの中で、
この小さな養生が、私を立ち戻らせてくれる。
今日も、小さな養生を。
Wrote this article この記事を書いた人
ミカ
手帳と暮らすミカです。 薬剤師・和漢薬膳師として、心と体の「めぐり」を見つめながら暮らしています。 40代を迎え、心や体の声に耳を澄ます日々。 手帳を開く時間は、私にとって小さな養生であり、静かな儀式です。 ここでは、ほぼ日手帳に綴る日々の出来事や心の揺れを通して、 「人間らしく生きる」ためのヒントを探しています。