
40代、体の正直さに戸惑う日々
40代という響きに、私はまだ少し馴染めない。
ついこのあいだまで「体力だけは自信がある」と思っていたのに、
今の体は私の意思とは関係なく、驚くほど正直な反応を見せる。
ある日の夕方、急な頭痛でキッチンに立つことができなかった。
夫も子どもたちも「何か食べたい」と目を輝かせているのを横目に、
私はただ、立っているだけで精一杯だった。
結局、その日は外食に頼ることにした。
「サッパリしたものがいいな」とうどん屋さんに向かったのに、
うどんだけでは物足りず、マグロたたき丼をつけてしまった。
結果は、案の定。
お腹はパンパン、家に帰る頃にはまた頭が重くなっていた。
体が喜ぶことよりも、欲望の方が先に立つ。
そんな自分に、少しがっかりしてしまった。
40代になってからというもの、
食べたものはすぐ体に反映され、
「全部、肉になってるんじゃないか」と笑いながらも、
どこか現実を突きつけられているような気持ちになる。
「更年期あるある」で片づけられない心身のゆらぎ
「どう考えても調子が悪いな」と感じる日が増えた。
生理周期は乱れ、時折、不正出血もある。
ホルモンの波に心まで引きずられるように、
理由のない落ち込みに襲われることもある。
世間では、それを「更年期あるある」と呼ぶ。
けれど、実際にその渦中にいる身からすれば、
その一言ではとても片づけられない。
体の不調は、そのまま心にも影を落とす。
「どうして私だけ」と思う夜がある。
何もできない自分に腹が立ち、
ふと、涙がこぼれることもある。
手帳の一ページに、そんな日の言葉が残っている。
「40代、若くないことはわかっていても、とてもきつい」
それは、見栄も強がりもない、
あのときの私の正直な声だ。
デジタルな世界と、アナログな心
在宅で働く私は、日々、AIやデジタルの最前線にいる。
合理的で効率的な世界。
どんな答えも、数秒で導き出せる。
けれど、私たちの体と心は、そんな世界とはあまりに違う。
データには収まりきらない不安定さ、
理屈では説明できない感情の波。
この“アナログな部分”を無理に整えようとすることが、
かえって私たちを苦しめている気がする。
AIは完璧に動く。
でも、人間はそうはいかない。
不調も揺らぎも、どれも「生きている証」なのだと思いたい。
紙の手帳は、私の避難場所
私が紙の手帳を使い続けるのは、
デジタルでは記録できない“私の不器用さ”を
そっと受け止めてくれるからだ。
誰にも見せないページの中で、
私は正直な自分に戻れる。
夕飯が作れなかった日の後悔。
食べすぎて苦しくなった夜の自嘲。
「どうしてこうなるんだろう」とため息をついた時間。
そうした小さな出来事を、
私は手帳に書き留めていく。
人前では笑っていても、
心の奥ではくたびれている自分。
そんな姿を、手帳の中では
そのまま許すことができる。
AIが正解を教えてくれる時代に、
私はあえて、間違いや感情の滲むページを残しておきたい。
それは、私の中の“生身の証”だから。
自分を認めることから始まる「養生」
私にとっての養生は、
薬や食事だけではなく、「自分を認める時間」そのもの。
体調が悪い日も、うまくいかない日も、
そのまま手帳に書く。
うまく笑えなかった自分も、
どうしても動けなかった一日も、
そこに記すだけで、少し軽くなる。
「夕飯が作れなかった日があってもいい」
「食べすぎてしまった夜も、私らしい」
そうやって、責める代わりに
“認める”ことが、40代の養生だと思う。
完璧を目指すよりも、
自分の限界をやさしく受け入れる。
その余白にこそ、静かな安らぎが生まれる。
紙の手帳に綴られた言葉たちは、
私の心と体を結ぶ小さな羅針盤。
どんなに揺らいでも、
また自分の場所へ戻れるように。
今日も小さな養生を。
Wrote this article この記事を書いた人
ミカ
手帳と暮らすミカです。 薬剤師・和漢薬膳師として、心と体の「めぐり」を見つめながら暮らしています。 40代を迎え、心や体の声に耳を澄ます日々。 手帳を開く時間は、私にとって小さな養生であり、静かな儀式です。 ここでは、ほぼ日手帳に綴る日々の出来事や心の揺れを通して、 「人間らしく生きる」ためのヒントを探しています。