愛犬の記事を書いて、涙が止まらなくなった日。

愛犬の記事を書いて、涙が止まらなくなった日。

この溢れる感情を、私は誰にぶつければいいのだろう

WordPressの画面を開き、
静かにパソコンに向かっていた。
その日書こうとしていたのは、
今年6月に天国へ旅立った、愛犬チョコのこと。

チョコとの散歩の記憶、
手のひらに残る温もり、
小さく震える寝息。
思い出を辿るたびに、
心の奥が少しずつ熱を帯びていくのを感じた。

ほんの数分のことだった。
キーボードを打つ指がふと止まり、
視界が滲んだ。

「どうして?」と考える間もなく、
静かな涙が頬を伝いはじめた。
嗚咽するような激しさではなく、
ただ、止めどなく流れ続ける涙。
言葉が出ず、私はただ、
画面の光の前で立ち尽くしていた。

チョコを思い出して悲しくなった――
そう説明するのは簡単だ。
けれど、あの涙はもっと深い場所から
溢れ出してきたように思う。

感情を閉じ込めて生きてきた私

涙が止まらない自分を前にして、
私はひとつのことに気づいた。
私は、自分の感情を表に出すことが
とても苦手なのだということ。

泣きたいときに笑ってしまう。
苦しいときに「大丈夫」と言ってしまう。
誰かに心配をかけたくなくて、
気づけば、どんな気持ちも
胸の奥に押し込めてしまう。

夫にさえ、本当の気持ちはうまく話せない。
「大丈夫」「平気だよ」と
いつもの強がりでやり過ごしてきた。

でも、チョコの前では違っていた。
どんな日も、どんな表情の私も、
チョコは何も言わず、静かに隣にいてくれた。
優しい眼差しで、
まるで「うん、わかってるよ」と言うように
じっと私を見つめてくれていた。

多分、私が心を開けていたのはチョコだけ。
何でも聞いてくれていたのも、チョコだけだった。

だからこそ、チョコを失った今、
自分の心の中に空洞ができているのだと思う。
あの日あふれた涙は、
その静かな空洞に触れた瞬間の痛みだったのかもしれない。

「強くあること」が、私を苦しめていた

きっと私は、ずっと“強くあること”に
縛られてきたのだろう。
母親として、妻として、社会の中で働く人として。
しっかりしていなければ。
泣いてはいけない。
誰かの前で取り乱してはいけない。

その「強さ」が、
いつのまにか私を覆う鎧になっていた。
そして同時に、
誰にも心を開けない孤独な私を
作り上げてしまっていた。

泣くことは弱さではないと
頭ではわかっている。
でも、心はまだその言葉を受け入れられない。
家族の前で涙を見せたら、
心配をかけてしまうのではないか――
そんな思いやりにも似た理由で、
私は今日も感情を閉じ込めている。

心の中で泣いている「私」を見つめる

この記事を書いている今も、
あの日の涙の余韻が残っている。
目を閉じると、
静かな夜の部屋で、
心の中のもう一人の私が
静かに泣いているのが見える気がする。

あのとき止まらなかった涙は、
私の中にまだ癒えていない場所があることを
そっと教えてくれたのだと思う。

誰かに話すことができなくてもいい。
言葉にならなくてもいい。
ただ、こうして文字にすることで、
少しずつ自分の中に風が通っていく。

愛犬チョコへの想いも、
心の奥で泣いていた私自身も、
どちらも確かに“ここにいる”。

今はまだ、
この感情を誰にぶつければいいのか、
わからない。
けれど、無理に答えを出さなくてもいい気がする。

きっとこの時間が、
私の心の奥にある小さな痛みを、
ゆっくりと癒してくれているのだろう。

パソコンの画面の光がやわらかく滲む。
私は深く息を吸い込み、
静かに目を閉じる。

チョコ、今日もあなたのことを想っているよ。
そして、ようやく少しだけ、
自分の心にも「悲しい」と言えるようになった。

今日も、小さな養生を。

Wrote this article この記事を書いた人

ミカ

手帳と暮らすミカです。 薬剤師・和漢薬膳師として、心と体の「めぐり」を見つめながら暮らしています。 40代を迎え、心や体の声に耳を澄ます日々。 手帳を開く時間は、私にとって小さな養生であり、静かな儀式です。 ここでは、ほぼ日手帳に綴る日々の出来事や心の揺れを通して、 「人間らしく生きる」ためのヒントを探しています。

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