
「っぽいもの」の精巧さに潜む罠
私たちは今、驚くほど簡単に「っぽいもの」を作り出せる時代に生きている。
AIに頼めば、数秒で完璧な文章や企画書ができあがる。
SNSを開けば、「丁寧な暮らしっぽい」写真や「充実した日々っぽい」投稿が、次々と流れてくる。
どれも美しく整っていて、隙がない。
そして、どこか心を惹かれる。
私自身、仕事柄、AIが生み出す文章やデザインに触れる機会が多い。
その精度と完成度には、正直、感嘆することもある。
まるで、誰もが憧れる“理想の答え”を簡単に再現できる時代になったかのようだ。
けれど、その「完璧さ」を見つめるうちに、ふと胸の奥がざわつく。
美しすぎるものの中に、自分の「生きた手ざわり」が見つからなくなるのだ。
「この景色は、本当にこの人の人生の等身大なのだろうか。」
「この“自分らしい意見”は、誰かの理想をトレースしていないだろうか。」
その違和感は、やがて自分自身にも向かう。
「私が見せている“自分っぽい私”は、本物なんだろうか」と。
誰かの「っぽい私」を演じる苦しさ
「っぽいもの」の罠は、その完成度にある。
他人が作る理想の姿は、あまりに魅力的で、つい自分もそこに寄せてしまう。
SNSを見ながら、無意識のうちに「こう見られたい」と思ってしまう瞬間。
誰かが言っていた言葉を、自分の考えのように使ってしまう瞬間。
知的で落ち着いて見える「っぽい私」
いつもポジティブで優しそうな「っぽい私」
みんなから共感される、無難で整った「っぽい私」
まるで、AIが生成した「理想的な人間像」を自分の顔に貼りつけているような感覚。
気づけば、演じることに慣れすぎて、本当の自分がどこにいるのか、わからなくなる。
40代という、人生の折り返しに差しかかって思う。
「その“っぽい私”は、本当に私なのだろうか」と。
たぶん違う。
誰かの正解をなぞってできた、偽物の衣のようなもの。
見た目は整っていても、着ている本人がいちばん息苦しい。
完璧に見せようとするほど、内側の私が摩耗していく。
その疲れを、私はもう見て見ぬふりができなくなってきた。
不完全さの中にしかない「本物」
AIの進化とSNSの飽和。
この二つの波の中で、私たちは常に「比較」と「最適化」にさらされている。
けれど本来、人の心はそんなに整っていない。
ムラがあり、矛盾があり、揺れて、迷って、ようやく進んでいく。
それこそが“本物の人間らしさ”なのだと思う。
誰かに「いいね」をもらうための言葉ではなく、
自分にしか書けない一文を、手帳に書き残す。
誰にも見せないそのページにこそ、
私の「生きている証」がある。
AIの正確なアウトプットよりも、
インクが滲んだ一行の方が、よほど私の心に近い。
「本物であろうとすること」は、
不器用さを受け入れることでもある。
うまく言えなかった日も、誰にも理解されなかった想いも、
そのまま抱えて生きていく。
40代の今、私はようやくそれを肯定できるようになった。
「本物の私」を探す静かな旅
SNSの中の自分は、いつも少しだけ脚色されている。
AIが描く理想の人間像も、どこかつくられた“型”の中にある。
けれど現実の私は、もっと地味で、不器用で、時々立ち止まってばかり。
それでも、その“等身大の私”の中にこそ、
あたたかい現実があると感じている。
誰かの期待に沿うための「自分っぽさ」は、
一瞬の安心をくれるかもしれない。
けれど、それだけでは心が満たされない。
心の奥に静かに残るのは、
誰にも見せない自分の素顔だ。
だから、私は手帳に戻る。
SNSで見せるためではなく、
AIに言葉を磨いてもらうためでもなく、
ただ、自分を確かめるために。
少し滲んだ文字の中に、
不器用なままの私がいる。
その存在を感じられることが、
この時代の「本物」を生きるということだと思う。
完璧でなくていい。
誰かの理想に合わせなくていい。
私の速度で、私の言葉で、生きていけばいい。
今日も小さな養生を。
Wrote this article この記事を書いた人
ミカ
手帳と暮らすミカです。 薬剤師・和漢薬膳師として、心と体の「めぐり」を見つめながら暮らしています。 40代を迎え、心や体の声に耳を澄ます日々。 手帳を開く時間は、私にとって小さな養生であり、静かな儀式です。 ここでは、ほぼ日手帳に綴る日々の出来事や心の揺れを通して、 「人間らしく生きる」ためのヒントを探しています。