
秋の風が、少し冷たくなってきた。
週末の土曜日は、いつもなら家族のにぎやかな声が響く日。
この日も、午前中は息子がバスケットボールの練習へ出かけていた。
コートに響くシューズの音。
走る姿は頼もしく、眩しいほどだった。
ところが、練習の途中で突然、泣き出してしまった。
「膝が痛い」と。
転んだわけでもないのに、痛みで動けなくなったその姿に、
胸の奥がヒュッと冷たくなる。
土曜の午後は病院も休み。
とりあえず湿布を貼って様子を見ることにした。
それでも、頭の片隅ではずっと考えてしまう。
「成長痛かな」「大したことないといいな」
手帳の片隅に、
「月曜日 整形外科」と小さくメモを残した。
その文字を見つめながら思う。
子どもの体の不調を前に、
いつも“母の時間”が動き出す。
それは心配や祈りの連続で、
どんな仕事よりも、感情のエネルギーを使うものだ。
からだが発する「静かなサイン」
そんな息子の痛みを気にかけながら、
自分の体にも、別の「痛み」があることを思い出す。
ここ最近、生理前になると、
胸の張りや便秘、重たい倦怠感が長く続くようになった。
心も、空模様のように曇りがちで、
理由もなく涙がこみ上げる日がある。
「またか」とつぶやきながら、
ソファに沈み込む午後。
窓の外では、秋雨が静かに落ちている。
その音を聞きながら、
からだの奥に溜まった湿り気を感じていた。
40代という年齢を迎えて、
からだも心も、ゆるやかに形を変えていく。
理解はしているつもりでも、
実際にその“波”を受け取ると、
どう対処すればいいのか戸惑ってしまう。
「休みたい」と思っても、
家事も仕事も待ってはくれない。
そんな日常の中で、からだの声は
だんだん小さく、かすれていく。
不便さの中にある「養生」の芽
リビングの花瓶に、秋の小さな花を挿した。
ふと見ると、ドライフラワーの枝が、
今にも折れてしまいそうに揺れている。
「私も同じかもしれない」
そう感じた瞬間、
少しだけ立ち止まりたくなった。
からだの不調や予定外の出来事は、
誰にでも訪れる“不便さ”だ。
でも、その不便さの中に、
本当の「整える力」が隠れている気がする。
完璧なレシピではなく、
自分だけのペース、自分だけの余白。
その中に、小さな養生の芽が生まれるのだと思う。
手帳がくれる、静かな対話の時間
夜、家族が寝静まったあと、
私はそっと手帳を開く。
リビングの灯りを少し落として、
今日一日の出来事と、心と体のゆらぎを書き留める。
「胸の張りが強かった」
「少しイライラしてしまった」
たった数行の記録でも、
頭の中で絡まっていた糸が、少しずつほどけていく。
手帳の白いページに書き出すことで、
不調が「原因を探る相手」ではなく、
「自分と話すきっかけ」になる。
その瞬間、からだが少し軽くなる気がする。
養生とは「わたし」を大切にすること
息子は、膝の痛みから
「体を大事に使うこと」を学ぶだろう。
そして、41歳の私は、
自分の体のゆらぎを通して、
「わたしを大切にすること」が養生だと
改めて感じている。
不調を否定せず、
「そうなんだね」と受け止めること。
それは決して弱さではなく、
自分を守る静かな力だ。
手帳を開くたび、
今日の私が、少しだけやさしくなる。
その優しさの積み重ねが、
これからの私を整えていくのだと思う。
今日も、小さな養生を。
Wrote this article この記事を書いた人
ミカ
手帳と暮らすミカです。 薬剤師・和漢薬膳師として、心と体の「めぐり」を見つめながら暮らしています。 40代を迎え、心や体の声に耳を澄ます日々。 手帳を開く時間は、私にとって小さな養生であり、静かな儀式です。 ここでは、ほぼ日手帳に綴る日々の出来事や心の揺れを通して、 「人間らしく生きる」ためのヒントを探しています。