40代、意見が通らない静かな諦め。手帳が教えてくれた「人間関係」の養生

40代、意見が通らない静かな諦め。手帳が教えてくれた「人間関係」の養生

窓辺に霞む、自分の意見の「重さ」

40代になると、経験が重みを帯びる。
若い頃より少し落ち着いてものを見られるようになり、職場でも家庭でも、ある程度の立場を得ていく。
けれどその「重み」が、いつのまにか自分の言葉を鈍らせることがある。

手帳の古いページに、こんな一文が残っていた。
「すでに相手の中に結論があるのに、形式的に意見を求められた。」

書いた当時の私は、少し怒っていたのだと思う。
でも今、読み返すと、それは怒りというより深い諦めだった。

どれだけ時間をかけて丁寧に話しても、
どれだけ良いアイデアだと信じても、
結局は、何も変わらない。

最初から方向性は決まっていて、
私の言葉はただ「発言した」という形を取るためだけに存在していた。

そんな場面を何度も重ねるうちに、
「どうせ言っても無駄だ」と思うようになった。
口を開くことが、少しずつ怖くなる。

意見が通らないというのは、
自分の存在が少しずつ薄れていくような感覚だ。
重い石を抱えたまま立ち尽くすような、
静かな疲れが、心の奥に沈んでいく。

窓の外の光は優しいのに、
自分の内側だけが曇っているような午後。
そんな日の私は、手帳を開く。

停滞する心のざわめき、それは「気」の滞りかもしれない

「言いたいことが言えない」
「聞いてもらえない」
そんな小さな我慢の積み重ねが、
いつの間にか心を硬くしていく。

東洋医学では、感情を抑え込むことが「気」の流れを滞らせると言われている。
胸のあたりが重く、息が浅くなり、理由のないイライラや肩こりが続く。
これが「気滞(きたい)」の状態。

思えば、あの頃の私はまさにそれだった。
上手く言葉にできなかった不満や悲しみが、体の中に留まり続けていたのだと思う。

手帳に書くという行為は、
その滞りを少しずつ外に流すための“無意識の養生”だったのかもしれない。

思いを言葉に変えることで、
心の中のざらつきが和らいでいく。
「これでよかったのかもしれない」と思える瞬間が、確かにあった。

手帳を開く。声にならない心の「余白」を書き出す

誰にも言えなかったことを、
私は手帳の中では何度も書き直している。

あのとき飲み込んだ言葉、
心の中でだけ反芻していた意見、
誰にも伝わらなかった本音。

それらを紙の上に静かに置いていく。
誰にも評価されず、訂正もされない。
手帳の中だけは、どんな気持ちもそのまま生きていられる。

時々、書きながら涙が滲む。
けれど、その涙は悲しみというより、
ようやく“自分に戻れた”という安堵に近い。

「書くこと」は、心のデトックスだと思う。
形にならなかった感情を外に出すことで、
滞っていた「気」がゆるやかに流れはじめる。

書き終えたあとの手帳を閉じる瞬間、
胸の奥に静かな空間が生まれる。
それは、怒りでも諦めでもない。
ただ、自分を少し許せるような感覚。

誰の意見でもない、自分を静かに認める暮らしへ

40代の人間関係は、若い頃のように勢いだけでは進めない。
「自分の意見を通すこと」よりも、
「自分の心を壊さないこと」の方が、ずっと大切になる。

相手の中にすでに答えがあるなら、
そこに無理に自分のエネルギーを注がなくてもいい。
本当に大事なのは、
自分の中に生まれた思いや考えを、
自分自身が受け止めてあげること。

手帳は、その静かな器になってくれる。
誰にも見せないページの中で、
私は何度も、黙って自分を抱きしめている。

「聞いてもらえない感覚」は確かに悲しい。
でも、自分の言葉は消えていない。
紙の上に、そして私の中に、
ちゃんと存在している。

その事実をそっと見つめられるようになってから、
人間関係の中での疲弊が少しずつ減っていった。
心の中に、
「それでも私はここにいる」という静かな芯が生まれた。

40代の今、
私はもう“意見を通すため”に話すことをやめた。
その代わり、
“自分の心を守るため”に書くようになった。

手帳の中で、私は何度でも自分の味方になれる。
それが、今の私にとっての人間関係の養生。

今日も小さな養生を大切に。

Wrote this article この記事を書いた人

ミカ

手帳と暮らすミカです。 薬剤師・和漢薬膳師として、心と体の「めぐり」を見つめながら暮らしています。 40代を迎え、心や体の声に耳を澄ます日々。 手帳を開く時間は、私にとって小さな養生であり、静かな儀式です。 ここでは、ほぼ日手帳に綴る日々の出来事や心の揺れを通して、 「人間らしく生きる」ためのヒントを探しています。

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