あたりまえが消えたあとに残るもの。心の穴を抱えたまま生きるということ

あたりまえが消えたあとに残るもの。心の穴を抱えたまま生きるということ

チョコがいない夏、静けさが胸に刺さる

8月のはじまり。
例年なら、蝉の声を聞きながらチョコの散歩に出かけていた時間。
けれど、今年はもうその小さな足音が聞こえない。

モラモラと輝いていたはずの夏の景色が、
少しだけ色あせて見える。

愛犬チョコが天国へ旅立ってから、
私の心の中にはぽっかりと穴があいたままだ。
それは思っていたよりも深く、
簡単に埋まるものではなかった。

喪失感は、いつも静かに日常の中に忍び込んでくる。
朝の光、空気の匂い、食器を片づける音。
そのすべてに、チョコの記憶が残っていて、
思い出すたびに胸の奥がじんわりと痛む。

時間が経てば癒えると言われるけれど、
実際はそう簡単じゃない。
心の回復は、季節がひとつ巡るように、
ゆっくりと、見えないところで進んでいくのだと思う。

「大丈夫」と言えない自分を責めていた

最初のころは、泣くことすらできなかった。
家族の前では気丈にふるまい、
仕事ではいつも通りを装っていた。

「大丈夫?」と聞かれるたび、
「うん、大丈夫」と笑って答えていたけれど、
本当は全然大丈夫なんかじゃなかった。

40代になってからというもの、
心の波をうまく隠すことが上手くなった気がする。
それは生きやすさでもあるけれど、
同時に、心の声を閉じ込めてしまうことにもつながる。

愛犬を失った悲しみだけでなく、
仕事や家庭、日常の小さな我慢が積み重なって、
いつのまにか自分でも気づけないほど、
心が疲れていたのかもしれない。

「悲しい」と言えないことが、
一番つらかったのかもしれない。

心の穴は「埋める」ものではなく、「抱える」もの

失ったものを取り戻そうとするほど、
その不在の大きさに押しつぶされそうになる。

だけど最近は思う。
心の穴って、無理に埋めようとしなくてもいいんじゃないかと。

あの子がいた時間、
その温もりやぬくもりが残る空間ごと、
そのまま抱えて生きていけばいい。

東洋医学では、心と体はつながっていると考える。
心の痛みを無理に消そうとするより、
その痛みを“存在の証”として受け入れることが、
本当の意味での「心の養生」なのかもしれない。

私が毎日手帳を開くのは、
そのための小さな儀式でもある。
悲しみを整理するためじゃなく、
そこに確かに存在した「愛しい日々」を残すために。

手帳が教えてくれた、心を整える習慣

チョコを見送ってから、
私はますます手帳に救われている。

手帳には、誰にも言えない感情を書いている。
「今日もチョコの夢を見た」
「空がきれいだった。チョコが見てる気がした」

そんな小さな一文でも、
書くことで少しずつ心の温度が戻ってくる。

紙の上では、悲しみも優しさに変わる。
涙がこぼれることもあるけれど、
ペンを置く頃には、
なぜか少しだけ心が軽くなっている。

手帳は、感情を整える“道具”ではなく、
心を回復させる“居場所”だ。
書くことで、今の自分を受け止め、
また前に進む力を少しずつ取り戻していく。

時間が心をやわらかくしてくれる

悲しみの波は、完全には消えない。
けれど、少しずつその波の形が変わっていく。

ふとした瞬間に思い出しても、
もう涙は出ない。
代わりに、あの日のあたたかい記憶が蘇って、
静かに心を満たしてくれるようになった。

時間は、傷を「なかったこと」にするのではなく、
痛みをやわらかく包み込んでくれるもの。
心の回復とは、そういう静かな変化のことを言うのかもしれない。

40代という年齢は、
何かを失う経験と、
新しい価値観が混ざり合う時期だと思う。

喪失もまた、人生の一部。
それを抱えながら生きていく強さが、
少しずつ、自分の中に根づいていく。

心の穴を完全に埋めようとしなくていい。
空いたままでも、ちゃんと生きていける。
その穴からこそ、やさしい風が吹き抜けていくのだから。

今日も、小さな養生を。

Wrote this article この記事を書いた人

ミカ

手帳と暮らすミカです。 薬剤師・和漢薬膳師として、心と体の「めぐり」を見つめながら暮らしています。 40代を迎え、心や体の声に耳を澄ます日々。 手帳を開く時間は、私にとって小さな養生であり、静かな儀式です。 ここでは、ほぼ日手帳に綴る日々の出来事や心の揺れを通して、 「人間らしく生きる」ためのヒントを探しています。

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