働くママの現実。病院に行くための“ひと言”が、なぜこんなに重いのだろう

働くママの現実。病院に行くための“ひと言”が、なぜこんなに重いのだろう

「早退します」のひと言が、こんなにも言いにくい

息子の整形外科の受診日、私はいつものようにパソコンの前でため息をついていた。
「すみません、今日は早退します」──たったその一言を、送るかどうかで数分迷う。

職場には、子育て中のママは私ひとり。
しかも私は在宅勤務。
「家にいるのに、早退?」そんな声を想像してしまい、
誰も何も言っていないのに、自分の中で勝手に弁明を始めている。

「子どもの通院だから」「どうしても今日じゃないと」
そんな説明を添えることに、少しの情けなさを覚える。
本当は、どの母親も誰かに頭を下げなくてもいいはずなのに。

在宅勤務=自由、なんて幻想

「在宅勤務なら融通がきいていいね」と言われることがある。
確かに、通勤時間はないし、子どもの帰宅にも気づける。
でもその自由は、“自己管理”と引き換えの自由だ。

パソコンのカメラの向こうでは、
同僚たちがオフィスで軽やかに雑談している。
私はひとり、静かな部屋で昼休みをやり過ごし、
洗濯機の音を聞きながら資料を作る。

仕事と家事の境界線は、床に描いたチョークのように簡単に消える。
夕方になれば、子どもの習い事の送迎。
仕事のメールは頭の隅で光り続ける。
「どちらも大事にしたい」という想いが、時々自分を追い詰めてしまう。

「母親だから」と「私だから」の間で

日本は少子化だと言われる。
だけど、子どもを育てながら働く今の現実を思うと、
「もうひとり産もう」と素直に思えない自分がいる。

仕事、家事、子どものスポーツクラブの送迎──
どれも大切で、どれも手を抜けない。
そんな日々の中で、ふと「もっと仕事を頑張りたい」と思う瞬間がある。
その気持ちを持つ自分を、否定してはいけないと頭では分かっているのに、
心のどこかで“母親として失格なのでは”という声がよぎる。

母親とはこうあるべき、
子どもを優先するのが当然、
そんな見えない圧力は、誰が作ったのだろう。
「母親だから」と「私だから」の間で揺れる時間が、
毎日の中にいくつもある。

「両立」という言葉の呪縛

「仕事と育児の両立」という言葉は、
まるで完璧にバランスを取ることを求めてくる呪文のようだ。
誰かが倒れないように、
細いロープの上で綱渡りをしているような感覚になる。

育休制度や時短勤務、在宅ワーク──
仕組みは整ってきたはずなのに、
心の余白はむしろ減っているように感じる。
「できて当たり前」とされる空気の中で、
疲れたと言えない母親が増えている。

本当に必要なのは、「制度」よりも「空気」なのだと思う。
助けを求めた人を責めず、
「大変だね」と自然に声をかけ合える社会。
その優しさが、母親たちを少し軽くするはずだ。

「母である私」と「働く私」が共に育つ社会へ

私が望むのは、どちらかを諦める社会ではなく、
どちらも大切にできる社会だ。

母親であることも、仕事を通して誰かの役に立ちたいという思いも、
本来は同じ「生きる力」から生まれている。
それを、どちらか一方に閉じ込めるのではなく、
ゆるやかに行き来できる仕組みがあればいい。

「母だから」ではなく、「私だから」できることを探しながら、
自分のペースで進む人が増えたら、
きっと社会も、少しずつ変わっていく。

子どもたちが大人になったとき、
“親になること”が恐れではなく希望に変わるように。
今を生きる私たちは、その道を少しずつ整えているのかもしれない。

今日も小さな養生を。

Wrote this article この記事を書いた人

ミカ

手帳と暮らすミカです。 薬剤師・和漢薬膳師として、心と体の「めぐり」を見つめながら暮らしています。 40代を迎え、心や体の声に耳を澄ます日々。 手帳を開く時間は、私にとって小さな養生であり、静かな儀式です。 ここでは、ほぼ日手帳に綴る日々の出来事や心の揺れを通して、 「人間らしく生きる」ためのヒントを探しています。

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