
Facebookが連れてきた懐かしい夜
昨日の夜、ふと昔のFacebookを開いた。
もう使っていないアカウントなのに、なぜか削除したくなって、
その前に少しだけ覗いてみようと思った。
タイムラインに流れてきたのは、犬の保護活動を紹介するショート動画。
画面の中で、小さな命が毛布にくるまれ、優しい手に撫でられていた。
それを見た瞬間、胸の奥が熱くなって、気づけば次の動画、
また次の動画と、何本も見続けていた。
どの犬も、誰かに愛されることを待っている。
その姿が、眠っていた記憶をゆっくりと呼び覚ました。
チョコがまだ元気だったころのこと。
そして、私がもう一匹の保護犬を迎えようとしていたあの頃の気持ちが、
静かに戻ってきた。
もう一匹を迎えようと思っていた頃
チョコは穏やかで、やさしい犬だった。
散歩の途中で他の犬に吠えられても、決して怒らない。
ただ一歩下がって、相手を受け入れるように立ち止まる。
そんなチョコを見ていると、いつも「この子となら、もう一匹いても大丈夫かもしれない」と思っていた。
当時、私は保護犬の譲渡会のサイトをいつもチェックしていた。
出会いの瞬間を夢見ながら、
どんな子がいるだろうと、胸をときめかせていた。
けれど、その矢先にチョコの体調が崩れた。
最初は少し元気がない程度だった。
でも、検査の結果、心臓に病気が見つかった。
薬を飲み、通院しながらの日々。
「もう一匹を迎えるのは、今じゃないね」
そう夫と話し、保護犬を迎える夢はいったん棚に置いた。
その判断が正しかったのか、今でも分からない。
でも、あのときチョコが見せてくれた穏やかなまなざしが、
“命を迎える”ということの重みを教えてくれた気がする。
命を迎えるという責任
犬を飼うというのは、命を預かること。
楽しいことばかりではなく、
時間も、手間も、心も、すべてをかける覚悟がいる。
SNSでは「保護犬を救おう」という言葉をよく目にする。
その響きは正しいけれど、少しだけ違和感もある。
犬を“救う”というより、
犬の存在に“救われる”のは、むしろ人間のほうではないかと感じるから。
チョコも、私を何度も救ってくれた。
仕事で落ち込んだ日も、
誰にも話せない寂しさを抱えた夜も、
チョコは黙って寄り添ってくれた。
その静かな温もりが、どんな言葉よりも優しかった。
だから私は今でも思う。
あの時間があったからこそ、
人を、そして命を信じる力が戻ってきたのだと。
別れのあとも、やさしさは続いていく
チョコがいなくなってから、もう数カ月が経つ。
それでも、いまだに家の中にはチョコの気配がある。
日当たりのいい窓際に置いたクッション。
散歩のときに使っていたお散歩グッズ。
どれも捨てられずに、静かにそのままになっている。
昨夜、保護犬の動画を見ながら、
ふと、チョコと過ごした最後の夜を思い出した。
体調が悪くても、私が近くにいると尻尾をゆっくり振ってくれた。
その動きを見ながら、「大丈夫、まだいける」と信じたかった。
けれど、命は止まる。
それを受け入れるのには、時間がかかる。
けれど不思議と、悲しみだけが残ったわけではなかった。
代わりに残ったのは、“ありがとう”という言葉。
たぶん私は、まだどこかでチョコに恩返しをしたいのだと思う。
だからこそ、保護犬を迎えたいという気持ちが消えない。
新しい命を迎えることは、
チョコから受け取った優しさを、次の誰かに手渡すことだから。
命は終わっても、優しさは続いていく。
その優しさが、次の命をあたためていく。
チョコが教えてくれたのは、そんな“命の循環”なのかもしれない。
今日も小さな養生を。
Wrote this article この記事を書いた人
ミカ
手帳と暮らすミカです。 薬剤師・和漢薬膳師として、心と体の「めぐり」を見つめながら暮らしています。 40代を迎え、心や体の声に耳を澄ます日々。 手帳を開く時間は、私にとって小さな養生であり、静かな儀式です。 ここでは、ほぼ日手帳に綴る日々の出来事や心の揺れを通して、 「人間らしく生きる」ためのヒントを探しています。