正しさにこだわりすぎないで|話し合いが進まない日の気づき

正しさにこだわりすぎないで|話し合いが進まない日の気づき

話し合いが、ただの“回転”になる日

今日の会議も、また長引いた。
何を決めたいのか分からないまま、
ただ言葉だけがぐるぐると回っていく。

「全員で話し合うことが大事」──そう言われれば確かにそうだ。
けれど、みんなの意見を丁寧に拾おうとすればするほど、
焦点はぼやけていく。

最初は建設的に始まったはずなのに、
途中から「正しさの証明」みたいになってしまう。
誰が間違っているか、誰の意見が通るか。
そんな空気になると、もう何も前に進まない。

ふと気づくと、誰も“聞いて”いない。
みんながそれぞれの正しさを語っているだけ。
その真ん中で、私は静かに疲れていた。

“正しさ”って、誰のため?

人はなぜ、こんなにも「正しさ」にこだわるのだろう。
会社の中でも、家庭でも、
誰かを納得させることより、
自分を守るために正しさを語っている気がする。

でも、「正しい」は「優しい」とは限らない。
誰かを押しのけてまで正しさを貫いたとき、
心のどこかにひっかかる小さな棘のような違和感が残る。

それでも、私は正しさを手放せずにいる。
「間違えたくない」という気持ちが、
いつの間にか私を縛っているのかもしれない。

話し合いが“戦い”になってしまうとき

会議が白熱してくると、
声の大きい人の言葉に空気が引きずられる。
意見を出さない人は“無関心”と見なされる。
でも、黙っている人ほど、ちゃんと考えていることもある。

本当の“対話”って、勝ち負けじゃないはず。
けれど、いつの間にか言葉が武器になり、
静けさが罪のように扱われる瞬間がある。

私もその中で、「何か言わなきゃ」と焦る。
発言したあとで、
「あれでよかったのかな」と自己嫌悪になる。
話し合いが終わるころには、
自分の存在ごと小さくなっている気がする。

“決まらない”時間にも意味がある

少し疲れた頭のまま、
コンビニで冷たい紅茶を買った。
あの長い話し合い、
結論は出なかったけれど、
あの時間は本当に無駄だったのだろうか。

もしかしたら、
誰かの考えがゆっくり変わっていく途中だったのかもしれない。
結論が見えない時間にも、
小さな変化は確かに起きている。

それを“ムダ”と切り捨てるのは、
焦りすぎている証拠かもしれない。

コントロールできないことを受け入れる

人と関わるということは、
自分の思い通りにならない瞬間を受け入れること。
それは、とても難しくて、でも尊いこと。

みんなが自由に話せば、まとまりは悪くなる。
でもその中に、ほんの少しだけ「理解の芽」が生まれる。
時間がかかっても、
そこに誠実さがあれば、それでいいのかもしれない。

「コントロールしなきゃ」と思うから、
疲れてしまう。
相手の心までは動かせない。
けれど、自分の聴く姿勢だけは、今すぐ変えられる。

「ダメだな」と思ったときこそ、やさしく

コンビニから帰ってからも、
今日の会議を思い返しては小さくため息をついた。
あのとき、どう言えばよかったのか。
沈黙してしまった自分が、少し情けなかった。

でも、思い返すうちに気づいた。
「話すこと」より「聴くこと」を選んだ自分を、
少しは誇ってもいいんじゃないかと。

たとえ場がまとまらなくても、
その中に誰かの気持ちを見ようとした時間は、
きっと無駄ではない。

正しさにこだわりすぎないで。
少し遠回りでも、
やさしさのある結論を選べる人でいたい。

今日も小さな養生を。

Wrote this article この記事を書いた人

ミカ

手帳と暮らすミカです。 薬剤師・和漢薬膳師として、心と体の「めぐり」を見つめながら暮らしています。 40代を迎え、心や体の声に耳を澄ます日々。 手帳を開く時間は、私にとって小さな養生であり、静かな儀式です。 ここでは、ほぼ日手帳に綴る日々の出来事や心の揺れを通して、 「人間らしく生きる」ためのヒントを探しています。

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