
20年前の今日、始まった二人の時間
今日、10月8日は、私と夫が付き合い始めた日。
21歳の頃の秋だった。
若かった私たちは、未来のことなんて深く考えず、
ただ「一緒にいたい」という気持ちだけでつながっていた。
気づけばあれから20年。
仕事、出産、子育て、家のこと、体の不調。
いつの間にか、会話の中心は“生活”になっていた。
昔のように、夜通し語り合うことはなくなったけれど、
その代わりに、穏やかな沈黙を受け入れられるようになった気がする。
昼の会話、そして夜の食事
今日、たまたま自営業の夫が家にいた。
昼ごはんの支度をしながら「そういえば、今日って付き合い始めた日だよ」と言ってみたら、
「覚えてるよ」と、あっさり返ってきた。
その一言が、意外にも心に残った。
派手な言葉ではないのに、20年という時間をそっと撫でるような優しさがあった。
夜は「記念日だから」と、夫が外食に誘ってくれた。
行ったのは、近くの和食店。牛タン懐石の店だった。
テーブルの上には、程よい照明と静かな音楽。
いつもなら沈黙が気まずくなるけれど、その夜は少し違った。
長い時間を共に過ごした相手だからこその、心地よい静けさがあった。
帰りに、ふと立ち寄ったケーキ屋で生チョコケーキを選んだ。
20年前、学生だったころに二人で食べたような、あの懐かしい味。
家に帰って、ふたりで小さく乾杯をした。
「20年かぁ」と夫がぽつりと言う。
私は笑って頷いた。それだけで十分だった。
話せない気持ちと、保たれた距離
夫のことが苦手だと感じる瞬間がある。
それは嫌いという意味ではない。
ただ、自分の本当の気持ちを話すのが怖いのだ。
心の奥を見せたら、否定されるかもしれない。
あるいは、受け止めてもらえないかもしれない。
そんな不安が、言葉を喉の奥で止めてしまう。
20年という年月の中で、本当にいろんなことがあった。
笑った日も、泣いた夜も、怒りの沈黙も。
その積み重ねが、私たちの間に“やわらかい距離”をつくった。
それは、完全な理解でも、完璧な信頼でもない。
けれど、お互いが無理をしないでいられる、ちょうどいい場所。
私はこの距離感を、悪いものだと思っていない。
むしろ、この距離があるからこそ、20年も続けてこられたのかもしれない。
会話よりも、空気で伝わるもの
話せない日があっても、伝わらないことばかりではない。
夫が少し遅く帰った夜、冷めたお茶を入れ直しておくこと。
体調が悪そうなときに、黙って湯たんぽを差し出すこと。
そんな小さな気配りが、言葉の代わりになっていく。
昔は、愛情を「言葉」で確かめたかった。
でも今は、黙っていても伝わるものがあると知っている。
“夫婦の会話”は、声のない部分にも存在する。
沈黙もまた、長い時間を生きてきた証だ。
これからの20年も、穏やかな距離で
20年目の夜、牛タンの香りとケーキの甘さの中で、
私はふと、これからのことを考えていた。
お互い、若くはない。
健康のこと、老後のこと、子どものこれから。
どれも答えが出ないまま、日々を回している。
でも、そんな中でも「一緒にごはんを食べる」ことが続いているのは、
それだけで十分、奇跡みたいなことなのかもしれない。
完璧にわかり合えなくてもいい。
本音をぶつけ合えなくてもいい。
ただ、静かに隣に座れる時間があれば、それでいい。
節目の日に思う、“続けること”の尊さ
記念日というのは、派手に祝うための日ではなく、
「今日まで生きてきたね」と静かに確かめ合う時間なのだと思う。
20年を経て、私はようやくその意味が分かってきた。
続けることは、時に退屈で、時に孤独で、時に優しい。
それでも、その全部を受け入れて並んで歩けることが、
夫婦の形のひとつなのだろう。
ケーキの上の小さな苺が、
20年前の初々しさをほんの少しだけ思い出させてくれた。
あの頃と違うのは、
隣にいる相手を“理解しようとしすぎない”自分がいること。
それでいい。
それが、今の私たちにとっての穏やかな幸せなのだから。
今日も小さな養生を。
Wrote this article この記事を書いた人
ミカ
手帳と暮らすミカです。 薬剤師・和漢薬膳師として、心と体の「めぐり」を見つめながら暮らしています。 40代を迎え、心や体の声に耳を澄ます日々。 手帳を開く時間は、私にとって小さな養生であり、静かな儀式です。 ここでは、ほぼ日手帳に綴る日々の出来事や心の揺れを通して、 「人間らしく生きる」ためのヒントを探しています。