手帳はもっと自由でいい。日常の「おまけ」も大切な記録にする、私の養生ノート術

手帳はもっと自由でいい。日常の「おまけ」も大切な記録にする、私の養生ノート術

40代、手帳に貼る「小さな記録」が私を解放してくれる

手帳と暮らす時間は、私にとって自分を整える儀式のようなものだ。
40代になり、家事、仕事、子育て。どれも手を抜けない日々の中で、
気づけば自分に「〜しなければ」と指示ばかり出していることに気づく。

完璧にやること、効率的にこなすこと。
どちらも間違いではないのに、知らないうちに心を締めつけてしまう。

そんな私を少しずつほどいてくれたのが、
“何を書いてもいい、何を貼ってもいい”という手帳の自由さだった。

ある日、Tシャツを買ったときについてきた
小さなテディベアのステッカーを何となく手帳に貼ってみた。
それが、思いがけず私を癒す時間になった。

「貼る」という行為が、記憶を立体的に残す

このシールを貼った瞬間、ただの紙のページが
「その日の私」を閉じ込めた記録に変わった。

その夏の日、息子のバスケット練習を見送ってから
体調が久しぶりに軽くて、少し寄り道して買い物を楽しんだ。
あの穏やかな午後の空気が、ステッカーを見るたびに蘇る。

私にとって手帳の記録とは、文字だけでなく、
その時の感触や香り、体温まで残す“立体的な日記”のようなもの。
映画の半券、コスメの箱の一部、季節限定のお菓子の包み紙。

それらを貼りつけることで、私は
「そのとき確かにここに生きていた自分」を感じ取ることができる。

忙しい日々の中で見逃しがちな「小さな幸せ」

40代の生活は、どうしても“効率”に支配されがちだ。
タスクをこなし、予定を詰め込み、気づけば日が暮れている。

そんな日々の中で、おまけのシールや紙切れを貼る時間は、
ほんの数分の、けれど確かな休息になる。

「これ、かわいいな」
「この瞬間、ちょっと幸せだった」

そう思った瞬間を残すことは、
自分を肯定する行為そのものだと思う。

日常の中の取るに足らないものを、
「ちゃんと残そう」と思えること。
それが、私にとっての小さな自己回復になっている。

手帳に貼った“おまけ”は、自分を大切にする合図

私は今でも、忙しい日が続くと
「またこんなことで疲れてしまって」と責めてしまう癖がある。

でも、そんなときこそ手帳を開くと、
テディベアのシールが静かにこちらを見ている。

その瞬間、思う。
「この小さなものを可愛いと思えた私は、まだ大丈夫だ」と。

貼ったおまけたちは、
忘れかけていた“暮らしの温度”を教えてくれる。
それは「私は私をちゃんと見ている」という合図だ。

忙しい現実の中でも、
自分の世界を大切にしていいんだと、
手帳が静かに背中を押してくれるような気がする。

答えを出さなくていい。余白が心を整える

手帳の使い方に正解はない。
誰かの真似をしなくてもいいし、きれいに整えなくてもいい。

そのときの気分で、感じたことを好きなように残せばいい。
シールでも、紙でも、落書きでも。

紙の手帳は、不完全な私をまるごと受け止めてくれる。
デジタルにはない温かさと、不揃いな自由。

40代の今だからこそ、
「うまくやる」よりも「そのままでいる」ことを
大切にしていきたいと思う。

おまけを貼ること。
それは、忙しさの中で忘れがちな“遊び心”を取り戻す時間だ。

手帳の余白は、心の余白。
何も埋めなくていい。

今日も、小さな養生を大切に。

Wrote this article この記事を書いた人

ミカ

手帳と暮らすミカです。 薬剤師・和漢薬膳師として、心と体の「めぐり」を見つめながら暮らしています。 40代を迎え、心や体の声に耳を澄ます日々。 手帳を開く時間は、私にとって小さな養生であり、静かな儀式です。 ここでは、ほぼ日手帳に綴る日々の出来事や心の揺れを通して、 「人間らしく生きる」ためのヒントを探しています。

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