
期待が心をすり減らす。届かない「ほんの少しの言葉」
誰かに期待して、その思いが空を切る夜がある。
相手を責めたいわけではない。
ただ、ほんの少しの言葉、
ほんの少しの優しさを、つい待ってしまう。
けれど、待てば待つほど、心は細く、脆くなっていく。
他人の気配に合わせて、自分の呼吸が乱れていく。
そのたびに、心の居場所がふらふらと揺れて、
どこにも落ち着けない夜を迎える。
40代になって気づいた。
体だけでなく、心にももう無理がきかないことを。
若い頃のように、感情を力づくで押し込めることもできない。
人の言葉ひとつで、静かに体調を崩すことさえある。
「気」が外へ漏れ出しているのだろう。
他人の言葉や態度に気を奪われ、
自分の中の「気」を守れなくなっていた。
期待という感情は、誰かを疲れさせる前に、
まず自分をすり減らすものだと、ようやく分かってきた。
誰かの「気」に振り回されず、
自分の中の「気」をやさしく整える。
それが、今の私にとっての養生なのだ。
「頼る」と「委ねる」の、静かな違いを知る
人はひとりでは生きられない。
だから、誰かに頼ることは悪いことではない。
けれど、頼ることと、委ねることのあいだには、
深くて静かな境界がある。
頼るとは、自分の足で立ちながら、
ときどき、そっと手を伸ばすこと。
その手の向こうに誰かのぬくもりを感じながらも、
自分の軸は、ちゃんと自分の中にある。
一方で、委ねるとは、
その手を離してしまうこと。
自分の輪郭がぼやけ、
相手の動きに合わせて形を変えてしまう。
他人に期待しすぎるのは、
この「委ねる」に近いのかもしれない。
相手の反応ひとつで心を揺らし、
自分の安定を明け渡してしまう。
だから私は、手帳にこの言葉を書いた。
「頼ることは、立っていること。
委ねることは、預けてしまうこと。」
この違いを知ってから、
人間関係が少しだけ楽になった。
まずは、自分の足元を整えること。
そこに立ち戻るたび、心の中に静けさが広がる。
期待を手放し、「気」を巡らせる養生の時間
期待を手放すことは、冷たさではない。
それは、自分を守る優しさの形だと思う。
誰かの反応に一喜一憂しない。
相手の変化を待たない。
ただ、自分のペースで呼吸を整える。
東洋医学では、心の疲れやストレスは
「気の滞り」から生まれると言われる。
期待して、気をもんで、気を奪われる——
それは、心身の流れをせき止めてしまう行為なのだ。
私は、そんな夜にはお香を焚く。
白檀の煙がゆらゆらと漂い、
沈香の深い香りが部屋に満ちていく。
香りを吸い込み、静かに吐き出すたび、
外へ漏れ出ていた気が、少しずつ自分の中に戻ってくる。

その煙のゆらぎを眺めながら、
外の世界に向いていた意識が
すこしずつ自分の内側へと還っていく。
気が巡り始めたとき、
心の中の「余白」が息を吹き返す。
手帳が映し出す「自分の機嫌」という静かな自由
誰かの言葉に心を揺らされた日こそ、
手帳を開く。
今日あったこと、感じたこと、
そして、期待してしまったこと。
それらを淡々と書きながら、
ページの上で自分の世界を整えていく。
書いているうちに、
「他人への期待」は「自分への問い」へと変わっていく。
「私が本当に求めていたのは何だろう」
「誰かを待つより、今の私にできることは?」
そう自問するたびに、
少しずつ、自分の中に光が戻ってくる。
自分の機嫌を他人に預けず、
自分の手で整えていくこと。
それは、孤独ではなく、自由だと思う。
「自分の機嫌は、自分で取る」。
この言葉が、知識ではなく、
体の奥に響くようになったのは、
40代になってからだった。
頼らない優しさで、生きていく
他人に期待しすぎて疲れた日。
それは、自分の中の優しさと強さを
見直す日でもある。
頼ることも、委ねないことも、
そのどちらも人を思う行為のひとつ。
誰かに優しくするように、
自分にも優しくできたなら、
それだけで生きる呼吸が少し楽になる。
「私ができることを、今日も少しだけ。」
そう言いながら、
静かに手帳のページを閉じた。
今日も小さな養生を。
Wrote this article この記事を書いた人
ミカ
手帳と暮らすミカです。 薬剤師・和漢薬膳師として、心と体の「めぐり」を見つめながら暮らしています。 40代を迎え、心や体の声に耳を澄ます日々。 手帳を開く時間は、私にとって小さな養生であり、静かな儀式です。 ここでは、ほぼ日手帳に綴る日々の出来事や心の揺れを通して、 「人間らしく生きる」ためのヒントを探しています。