
秋晴れの朝、校庭に響く声
朝、カーテンを開けると、空がまるで洗い立てのように澄んでいた。
運動会の日の朝は、少し早起きしても不思議と眠くない。
支度を整えながら、窓の外に響くアナウンスや子どもたちの声を聞いていると、
自分まで少し緊張してくる。
コロナ以降、お弁当のない運動会になった。
最初は味気ないと思っていたけれど、
今はこの“身軽さ”が心地よくて、
青空の下で立ち見をしながら、子どもたちを追う時間が好きになった。
シートを広げる人もいない。場所取りもなく、自由に移動できる。
グラウンドの端から端へと歩きながら、
懐かしい顔に何度も出会った。
子どもたちが通う学校は、私の母校でもある。
あの頃の友達が、今はパパやママになって、
同じ校庭で自分の子どもを応援している。
「久しぶり!」と笑い合うその瞬間に、
時の流れの優しさを感じた。
立ち止まって風を感じるたび、
“今”がどこか遠くの記憶と静かに重なっていくようだった。
鳴り響いていた音が、今はもうない
運動会の音といえば、私は子どもの頃ブラスバンドに入っていた。
運動会は演奏の晴れ舞台でもあり、
行進曲のリズムに合わせて列を整えたり、
競技の合間に披露するダンスに胸を弾ませたりしていた。
あのトランペットの音、ドラムの響き、制服の汗の匂い——
今も心のどこかで鳴り続けている。
けれど今は、ブラスバンド自体がもう無い。
子どもが少なくなり、音楽はすべて音源から流れるようになった。
整いすぎたスピーカーの音は便利だけれど、
人の息づかいがないぶん、少しさみしく感じる。
昔のように音が揺れたり、テンポがずれたりすることすら、
今思えば愛おしい“生きた音”だったのかもしれない。
息子の笑顔、娘の涙
徒競走のスタートライン。
息子は真っすぐ前を見つめていた。
去年は何度も転びかけて悔し涙を流したけれど、
今年は落ち着いた表情でスタートを切った。
結果は一等賞。
けれど私が嬉しかったのは、勝ったことではなく、
練習で何度も負けていたお友達に、ようやく本番で勝てたその笑顔。
努力が報われたという瞬間に立ち会えたことが、
何より誇らしかった。
一方で、娘の徒競走は最後の順位。
けれど、ゴール直前で私の姿を見つけた瞬間、
泣きながらも一生懸命走ってきた。
その涙は、きっと“悔しい”というまっすぐな気持ちの証。
私は、何番でもいいと思っている。
大切なのは、走る気持ちと、悔しい気持ちを覚えていること。
それが次の一歩につながっていく。
家族で囲むハンバーグの湯気
運動会のあと、
「おつかれさま」の気持ちを込めて、家族でブロンコビリーへ。
ジュウジュウと鉄板で音を立てるハンバーグとステーキ。
湯気の向こうで、みんなの顔が少しほころぶ。
「来年はもっと速く走る!」と娘が言うと、
息子が「オレがコツ教えるよ」と笑った。
ようやく肩の力が抜けたような気がした。
テーブルの上に並んだお皿を見ながら、
行事のたびに、家族の形が少しずつ変わっていくのを感じた。
子どもたちは確実に前に進んでいて、
私たちもまた、それを見守る時間を重ねている。
バスケ観戦という、次の楽しみ
そして、次の予定。
スケジュール帳には「29日 群馬クレインサンダーズ観戦」と書いた。
去年はなかなかチケットが取れず、一度しか行けなかった。
だから今年は、思い切ってファンクラブのランクを上げた。
ユニフォームも届き、ペンライトも準備完了。
すでに子どもたちは、誰の背番号を着て行くかでもめている。
応援するチームがあるというだけで、
日々の生活にちょっとした張りが生まれる。
手帳のページに書かれた“観戦の日”を眺めるたび、
その日を想像して胸が高鳴る。
運動会で感じた「がんばる姿の美しさ」と、
バスケットで感じる「応援する喜び」。
どちらも、今の私に必要なエネルギーのように思う。
手帳に残る、家族の季節
手帳をめくると、そこにはただの記録ではなく、
家族が積み重ねている季節の証がある。
これからも、こうして少しずつ、
“誰かを応援する日”を増やしていけたらいい。
今日も小さな養生を。
Wrote this article この記事を書いた人
ミカ
手帳と暮らすミカです。 薬剤師・和漢薬膳師として、心と体の「めぐり」を見つめながら暮らしています。 40代を迎え、心や体の声に耳を澄ます日々。 手帳を開く時間は、私にとって小さな養生であり、静かな儀式です。 ここでは、ほぼ日手帳に綴る日々の出来事や心の揺れを通して、 「人間らしく生きる」ためのヒントを探しています。