03:自分の「体質」は「性格」ではなかった——「私が悪い」から、「私の肝と脾が少し疲れているだけ」へ

03:自分の「体質」は「性格」ではなかった——「私が悪い」から、「私の肝と脾が少し疲れているだけ」へ

いつも「どうして私はこうなんだろう」と責めてきた。
でも、東洋医学を知ってからわかった。
それは「性格の問題」ではなく、
体の中の気が少し滞っていただけだったのかもしれない。

肝と脾。
この二つの臓のバランスが、心と体の調子を左右している。
体質を知ることは、自分を許すこと。
手帳に一行書き残すだけで、
心の声がやわらかく聞こえてくる。

「きちんとしなきゃ」が止まらなかった理由

朝、目が覚めると同時に、頭の中で一日のToDoが並び始める。
洗濯、弁当、メールの返信、資料の締め切り。
どれも大したことではないのに、「早く」「ちゃんと」「完璧に」と、
無意識の声が背中を押す。

時計の針が一分進むたびに、心の奥で何かが焦げていく。
息をつく暇もなく、“ちゃんとやらなきゃ”という呪文の中で、
今日も自分を追い立てていた。

夜、ようやく仕事を終えて、台所の明かりを落とす。
けれど、心はぜんぜん休まらない。
「もう少し上手くできたんじゃないか」
「ミスしてないかな」
考え出すと、胸の奥がざわざわして、
目を閉じても頭の中の小さな反省会が終わらない。

そんな自分が、ずっと嫌いだった。
いつも緊張して、肩に力が入って、
人の言葉に過敏に反応してしまう。
それを“性格の弱さ”だと信じて疑わなかった。

「もっと穏やかに」「もっと柔らかく」と思うほど、
体は硬く、心は固くなっていった。
ふと鏡を見ると、眉間に皺が寄っている。
笑顔をつくる筋肉が、どこか迷子になっていた。

ある夜、手帳を開いた。
日付の欄には、びっしりと予定と反省が並んでいた。
「できたこと」よりも、「できなかったこと」ばかりを並べる癖。
その文字を眺めて、ふと気づく。
——私は、何を守るために、こんなに“きちんと”してきたんだろう。

思い返せば、子どもの頃からそうだった。
授業中に手を挙げるタイミングを間違えるのが怖くて、
いつも人の顔をうかがっていた。
誰かが眉をひそめると、それが自分への不満に思えてしまった。
失敗するより、完璧でいたい。
そうやって、心の中に一本の“緊張の糸”を張り続けてきた。

でも、その糸はいつからか、切れそうなほど細くなっていた。
気づかないふりをして、無理やりピンと張り続けた結果、
体が先に悲鳴をあげた。
朝起きても体が重く、胃のあたりに小石を抱えたような圧迫感。
肩こり、冷え、そして理由のわからない焦燥。

思考と体が、すれ違い始めたのはこの頃だったと思う。
心は「もっと頑張れ」と言い、体は「もうやめて」と囁く。
その矛盾の間で、私はずっと板挟みになっていた。

——もしかしたら、“完璧に生きる”ことが私の幸せではなかったのかもしれない。
この静かな疑問が、あとに続く「体質」という扉を開ける最初の鍵になった。

性格だと思っていたのは、「肝」と「脾」の声

あの頃の私は、「気持ちの切り替えが下手な性格」だと思っていた。
けれど、東洋医学を学んでから気づいた。
——それは、性格ではなく「肝」と「脾」のバランスの問題かもしれない。

東洋医学では、心の動きと消化吸収を支える二つの臓、
肝(かん)と脾(ひ)が、心身の調和を司っている。

肝は、体の中を流れる「気(エネルギー)」を巡らせる臓。
のびのびとした動きを好み、抑えつけられるのを苦手とする。
ストレスや我慢が続くと、気がうまく流れなくなり、
胸の張り、怒りっぽさ、ため息などとして表に出る。

一方の脾は、食べ物や水分から「気」と「血」を作り出し、
体と心の栄養を生む臓。
脾はまた、“思慮や心配”という感情を司る場所でもある。
考えごとが多いと、脾の働きが鈍り、
胃の不快感、むくみ、倦怠感として現れる。

この二つは、互いに支え合っている。
脾が弱ると、肝の気が流れにくくなり、イライラや焦りが出る。
逆に肝が緊張しすぎると、脾の消化吸収の力を妨げ、
胃のもたれや食欲不振が起こる。

——私の中では、まさにこの「肝脾不和(かんぴふわ)」が起きていたのだと思う。

仕事や家事での小さなストレス(肝の緊張)と、
考えすぎる癖(脾の疲れ)が、静かにバランスを崩していった。
それを私は「性格の問題」として抱え込んでいた。

気づいたとき、胸の奥で何かがほどけた。
「私は弱い」ではなく、「私は少し疲れているだけ」——
その言葉の置き換えが、救いのように響いた。

体の声を聞くというのは、心を許すことでもある。
怒りや不安を“悪い感情”と切り離さず、
「これは肝が緊張しているサイン」
「脾が冷えているから考えすぎてしまう」と、
やさしく名前をつけてあげる。

すると、心はほんの少し落ち着きを取り戻す。
自分を責める代わりに、整える方向へ舵を切れる。
それは、東洋医学の知恵がくれる、
「自己受容」という名の養生だった。

🕊 脚注

  • 肝(かん):全身の「気」の流れを管理し、情緒を安定させる働きを持つ。
  • 脾(ひ):食物から気血を生み出し、体の中心を支える臓。思慮・心配の感情と関係が深い。
  • 肝脾不和(かんぴふわ):肝の気が高ぶり、脾の機能を抑制してしまう状態。イライラや胃腸の不調が同時に起こる。

「考えすぎ」は、脾を疲れさせる

夜、布団に入っても、頭の中が止まらない。
今日の会話、返事のトーン、相手の顔。
あの一言は余計だったかもしれない——そんな考えが、
静かな部屋の中で何度も反芻される。

体は眠りたがっているのに、心がまだ働いている。
呼吸が浅くなり、胸の奥が重くなる。
「もう寝よう」とつぶやいても、
思考の渦が小さな波のように押し寄せてくる。

朝を迎えるころには、頭が霧のようにぼんやりして、
お腹のあたりが冷えている。
眠ったはずなのに、まるで休んでいないような疲労。
これが“考えすぎ”の翌朝の体。

東洋医学では、この状態を「思(し)の過多」と呼ぶ。
考えごとを抱え込みすぎると、
体の中心を支える脾(ひ)が疲れてしまう。
脾は“思慮”の臓でもあるから、
頭で回り続ける思考は、脾のエネルギーを消耗させる。

脾が疲れると、消化が鈍り、気の流れが滞る。
お腹の張り、食欲の低下、そして朝のだるさ。
それらは単なる「ストレス」ではなく、
脾が「考えすぎているよ」と教えてくれる小さなサイン。

私の場合、それが長い間わからなかった。
「気が利かない」「集中力がない」と自分を責めながら、
脾をさらに追い込んでいたのだと思う。

でもある日、思った。
——考えることを、少し“おやすみ”にしてもいいのかもしれない。

思考を止めるのではなく、
体にいったんバトンを渡す。
温かい白湯をひと口。
肩に手をあてて、息を長く吐く。
その小さな動作の中で、
頭の中の糸が少しずつゆるむのを感じる。

思考をやめることは難しくても、
考えの“速度”をゆるめることはできる。
脾が少し休むと、気がまた流れ始める。
考える力も、やさしさも、本来のリズムを取り戻す。

脳が静かになる夜、
その沈黙は「怠け」ではなく、「再生」の前触れ。
——体は、いつも心より先に整おうとしてくれている。

🕊 脚注

  • 思(し):五志(ごし)と呼ばれる五つの感情の一つ。思慮・心配・熟考を指し、脾と深く関係する。
  • 脾(ひ):過度の思考や心配で機能が低下しやすい臓。体の中心で気血の循環を支える。

手帳で変わる「自分への言葉かけ」

手帳を開くと、そこには一日の私がそのまま並んでいる。
できなかったこと、言いすぎたこと、
つい感情的になってしまった自分。

ページをめくるたびに、胸の奥でため息が重なっていく。
「また同じ失敗をした」
「どうして私はいつもこうなんだろう」
その言葉たちは、いつしか呪文のように、
自分を縛る縄になっていた。

けれど、ある日ふと思った。
——同じ出来事でも、
書く言葉を変えたら、意味も変わるんじゃないか。

「完璧にできなかった」ではなく、
「少し疲れていたのかもしれない」。
「うまく言えなかった」ではなく、
「今日は肝の気が張っていたのかも」。

たった一文字、たった一文の変化で、
心がふっと軽くなる瞬間がある。
責める言葉を、観察する言葉に。
分析する代わりに、許す言葉に。

手帳の上で、私は自分と話している。
過去の私に「大丈夫だったよ」と声をかけ、
未来の私には「少し休んで」と書き残す。
誰かに届かなくてもいい。
その言葉が自分の心にやわらかく響けば、それでいい。

東洋医学では、「言葉も気を運ぶ」と考える。
優しい言葉は、気をのびやかに流し、
とげのある言葉は、気の通りをせき止めてしまう。
だから、手帳の中でどんな言葉を選ぶかが、
自分の体のリズムをも整えていく。

私の“治療”は、ペンの先から始まっていたのだと思う。
その日をどう受けとるかは、書き方ひとつで変わる。
言葉を変えることは、世界の見え方を変えること。
そしてそれは、心の気の流れを少しだけやわらげる養生でもある。

手帳のページの中で、
「できなかった」ではなく、「よくここまでやったね」と書く。
それだけで、体の奥にあった硬さがふっと溶けていく。

——書くことは、私にとって小さな鍼のようなもの。
紙に刺すインクが、心の滞りを少しずつ流していく。

🕊 脚注

  • 言葉と気:東洋思想では「言葉は気を動かす」とされ、声や文字にもエネルギーが宿ると考えられている。
  • 肝の気が張る:感情やストレスによって肝が緊張し、気の流れが上へ偏る状態。イライラや焦りとして現れる。

手帳でできる「体質メモ」

体を知ることは、
自分を理解するための、いちばんやさしい入口だと思う。

日々の不調を「悪いこと」として切り捨てるのではなく、
そこに小さなメッセージがあるとしたら——。
手帳に書く一行が、その声を拾い上げてくれる。

私は、体調を記録するときに、
完璧な表や数値を追うのをやめた。
代わりに、“今の自分を感じたままに書く”ことを大切にしている。

たとえば、こんな風に。

冷え・熱のバランス
「手足が冷たい」「顔が熱い」「お腹が冷える」
——体のどこに“偏り”があるかを書くだけでいい。
その日の気温や気分も一緒に記しておくと、
体と季節のリズムが見えてくる。

気・血・水のチェック
気(き)——ため息、胸の張り、お腹の重さ。
血(けつ)——顔色のくすみ、爪の割れ、乾燥。
水(すい)——むくみ、舌の苔、天気痛。
どれも難しい分析ではなく、
「なんとなく重い」「今日は軽い」で十分。

内省のひとこと
「私の体は、今なにを伝えようとしているんだろう」
そんな問いをひとつ添えるだけで、
日記は“治そうとする場所”から“理解する場所”へと変わる。

気づくことが、整えることのはじまりだ。
自分を責めてきた日々も、書き残すことで意味が変わる。
「なぜできなかったのか」ではなく、
「どんなサインを見落としていたのか」。

その視点の違いが、体と心の関係を少しずつほどいていく。

朝の白湯、夜の深呼吸、そして一行の日記。
それらは全部、「気を整える行為」につながっている。
特別な知識がなくても、
手帳という小さな舞台の上で、誰でも自分の養生を始められる。

そして、どんなに短くても、
その記録は未来の自分を助ける灯になる。

今日書く一行が、
明日の不調を軽くするかもしれない。
それが、東洋医学が教えてくれる“未病を防ぐ”という智慧。

体質を知ることは、自分を治すことではなく、
自分と仲直りすること。

——だから、今日も少しだけ書いてみよう。
未来のあなたが、その一行にきっと救われるから。

今日も小さな養生を。

🕊 脚注

  • 気・血・水(き・けつ・すい):東洋医学の基本要素。気はエネルギー、血は栄養、水は体液。三つのバランスが健康を支える。
  • 未病(みびょう):病気になる前の未完成な状態。東洋医学では、未病を整えることを重視する。

Wrote this article この記事を書いた人

ミカ

手帳と暮らすミカです。 薬剤師・和漢薬膳師として、心と体の「めぐり」を見つめながら暮らしています。 40代を迎え、心や体の声に耳を澄ます日々。 手帳を開く時間は、私にとって小さな養生であり、静かな儀式です。 ここでは、ほぼ日手帳に綴る日々の出来事や心の揺れを通して、 「人間らしく生きる」ためのヒントを探しています。

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