研修と言いながら、実態はただの旅行──その温度差がしんどい
その日、社内では「研修」と呼ばれるイベントがあった。
けれど、配られたスケジュール表を見たときから、私はどこか胸の奥がざわついていた。
内容は伏せますが──と前置きしたくなるような、中身だった。
学びの時間や、仕事に向き合うセッションがあるわけではなく、
ほとんどが“アクティビティ”と呼ばれる予定で埋め尽くされている。
見学や講義といった言葉はどこにもなくて、
その代わりに並んでいるのは、どう考えても「遊び」にしか見えない時間たち。
当日、私はひとり自宅でリモート勤務をしていた。
いつもと同じようにパソコンを立ち上げ、メールを開き、タスクを確認する。
画面の中だけを見ていれば、いつも通りの仕事の朝だ。
それでも、社内チャットの雰囲気は、いつもとは少し違っていた。
スタンプの数が多いとか、テンションの高い言葉が飛び交っていたとか、
そういうわかりやすいものではない。
それでも、どこからか “遊びの空気” がじわじわと伝わってくる。
「楽しみですね」「ワクワクしてきました」
そんな何気ない一言の向こう側に、
私の知らない場所で盛り上がっている輪が、ぼんやりと透けて見える。
私は、馴れ合いたいわけじゃない。
みんなと一緒に騒ぎたいとか、仲間意識を高めたいとか、
そういう欲求が強いタイプでは、きっとない。
ただ、仕事の日には仕事がしたいだけだ。
研修と言うのなら、学びの時間や、じっくり話す場があるといいなと思う。
そこに「今日は思い切り遊びましょう」というノリを重ねられると、
心のどこかがふっと遠くなる。
画面のこちら側では、静かにタスクをこなしている自分がいる。
その一方で、画面の向こう側には、
学生サークルの旅行のような空気をまとった“研修”が進行している。
同じ会社に所属しているはずなのに、
私はまるで別の場所から、その様子を横目に見ているような感覚になる。
「私はここで、何を求められているんだろう」
「この会社にとっての“研修”って、いったい何なんだろう」
詳しい内容には触れないまま、
そんな小さな疑問だけが、心の中でゆっくりと輪を描いていく。
大きな不満を叫びたいわけじゃない。
でも、どこかすっきりしない、この温度差の正体を、
自分自身に問い直したくなる一日だった。
アクティビティとサウナ…学生ノリについていけない40代の本音
「研修とはいったい何だろう。」
その問いが、ふと胸に落ちたのは、
スケジュールの中身を見たときだった。
内容は伏せるけれど──
そこに並んでいたのは、学びでも対話でもなく、
ただ楽しむための時間ばかり。
まるで大学のサークル旅行のようなノリで、
“遊び”という空気が、スケジュール全体からふわりと漂っていた。
私は、その「楽しさ」自体に文句を言いたいわけではない。
みんなが笑って過ごせるなら、それはそれでいい。
でも、それを “研修”と呼ぶ姿勢 に、
どうしても気持ちがついていかなかった。
研修という言葉には、
仕事について考える時間、
これからの方向性をすり合わせる時間、
お互いを理解するための会話が含まれているはずだ。
けれど、そのどれもがなかった。
ただ「楽しければいいでしょ」という空気だけが前面に出ていて、
そこに“仕事としての意味”を見つけることがどうしてもできなかった。
40代になると、
仕事に求めるものが少しずつ変わっていく。
若いころのように、
大勢で盛り上がることが癒しになる時期は、いつしか過ぎ去っていて、
今はもう「落ち着いて仕事ができる時間」そのものに価値を感じている。
だからこそ、
“研修”という名札をつけながら、
実態はただのアクティビティの集合であることに、
どうしようもない違和感が生まれたのだと思う。
理解できない、というほど強い反発ではない。
ただ、静かに腑に落ちない。
その温度差が、胸の奥でゆっくりと重たく沈む。
「私は、ただ仕事がしたいだけなのに」
そうつぶやきたくなる瞬間が、
今日の中には確かにあった。
リモートで働く私は、どこか距離を置かれている気がした
研修当日、私はいつもと同じようにパソコンの前に座り、
静かに仕事を始めた。
画面の中ではタスクが淡々と並び、
締め切りや依頼のメッセージが普段通りの顔をして待っている。
その空気こそが、私にとっての“仕事の日の風景”だった。
けれどその裏側で、
社内はまるで違うリズムで動いていたのだと思う。
それが、たとえ具体的に言葉にされなくても、
わずかなやり取りの温度から、じわりと伝わってくる。
誰も悪気があるわけじゃない。
もちろん、排除したいとか、仲間外れにしたいとか、
そんな意図はどこにもないと思う。
ただ、“現地で研修に参加している空気”と、
“自宅で仕事に向き合う私の空気”が、
まったく別物になっていた。
孤立している、と言うほど大げさではない。
それでも、
「私はこの場所にいないんだ」
という小さな距離が、胸の中にふっと浮かんでくる。
年齢のせいなのかもしれない。
環境の差なのかもしれない。
でも、40代になって、
自分が大切にしたい “働き方” がはっきりしてきた今、
その価値観と、会社の“ノリ”の違いが
静かに心をすり減らす。
リモート勤務という働き方は、
時間も、場所も、自分で整えられる自由さがある一方で、
会社の空気とズレた瞬間に、
そのズレが強調されてしまう場所でもある。
今日感じたのは、
“距離をとりたい” のではなく、
“距離が生まれてしまう” という現実だった。
ただ黙って仕事をしていたはずなのに、
私の知らないリズムがどこか遠くで踊っていて、
その音だけが、うっすらと聞こえてくる。
その瞬間、
「ああ、私は今日は“ここ”にいないんだ」
と、静かに気づいてしまう。
求めている“研修”は、そうじゃない
研修という言葉には、本来もう少し落ち着いた響きがあるはずだ。
仕事を振り返ったり、これからの方向性を話し合ったり、
自分のスキルや役割を見つめ直したり──
そんな静かな時間を思い浮かべる。
だからこそ、今日の“研修”と呼ばれるものに、
どうしても馴染めなかったのだと思う。
内容は伏せるけれど、
そこに「学び」や「対話」の気配はほとんどなかった。
ただ、楽しい時間が流れるだけ。
それを悪いとは言わないけれど、
これを研修と呼んでしまう価値観に、
私の心はそっと距離を置いてしまった。
40代になると、
仕事に求めるものが少しずつ変わっていく。
刺激より、落ち着きを。
賑やかさより、質を。
大勢で盛り上がるより、深く考える時間を。
そんなふうに、価値観が静かに形を変えていく。
だから、今日のような“研修”は、
もはや私の求める学びの場ではなくなっていた。
若い社員の多い会社なら、
あの空気感が自然なのかもしれない。
楽しければいい、盛り上がればいい、
それもまた一つの文化だ。
でも、私が今ほしいのは、
その場で作られる一体感ではなくて、
仕事そのものに向き合う時間だ。
長く働いてきた分だけ、
“何をしたいのか”“どう働きたいのか”が、
はっきりしてきたからだと思う。
求めている研修は、
華やかでも刺激的でもなくていい。
ただ、自分の歩幅で考えられる時間がほしい。
会社に合わせるための時間ではなく、
自分を立て直すための、静かな余白が。
今日感じた違和感は、
「嫌だ」という単純な感情ではなく、
“求めるものが変わった自分”に気づくためのサインのようだった。
40代の働き方──無理に合わせないという選択肢
40代になると、
「周りと足並みを揃えること」よりも、
「自分の心がすり減らないこと」のほうがずっと大切になってくる。
若い頃のように、会社のノリに合わせて盛り上がったり、
その場の空気に身を委ねたりするのが楽しかった時期は、
もうとうに過ぎてしまった。
今は、どれだけ自然体でいられるか、
どれだけ自分のペースで働けるか──
そこに価値を置くようになった。
だから、今日の“研修”のように、
会社が描く理想の雰囲気に無理やり乗る必要は、
もうないのかもしれない。
もちろん、仕事をする以上、
完全に距離を置くことはできない。
コミュニケーションだって必要だし、
時には場に合わせることも求められる。
でも、それと “自分を消して合わせること” は違う。
無理に笑ったり、
楽しいふりをしたりしてまで、
心をすり減らす必要は、もうどこにもない。
会社にも文化があるように、
私にも私の生き方がある。
そのふたつがぴたりと重なる時期もあれば、
すこしずつずれていく時期もある。
今日感じた違和感は、
そのズレがはっきり姿を見せた瞬間だったのだと思う。
大事なのは、
そのズレを否定しないこと。
「ついていけない自分」が悪いのではなく、
「価値観が変わった自分」がそこにいるだけ。
40代の働き方は、
無理をして馴染むことではなく、
自分を守りながら歩くことなんだと思う。
自分のペースで、
自分の温度で、
自分の働き方を選んでいい。
合わせるよりも、
すり減らさないほうが大切な年齢だから。
今日も小さな養生を。
