
同僚が辞めると聞いた日のこと
その知らせが届いたのは、春の終わりだった。
「パートスタッフの契約は、今期で終了になります。」
いつものチャットに流れた一文が、
画面の向こうの日常を少しずつ変えていった。
顔を合わせたことはないけれど、
画面越しには何度も笑い合った。
ちょっとしたミスを笑いに変えたり、
週末の話で盛り上がったり。
リモートという距離の中で、
たしかに“仲間”と呼べるつながりがあった。
けれど、辞めると聞いてからの二か月間は、
少し空気が違っていた。
同じ会議でも、どこか慎重で、
沈黙の時間が増えていった。
終わりが見えている関係の中で、
何を話せばいいのか分からなかった。
私は社員だから残った。
でも、“残る”ことが必ずしも“守られる”ことではない。
去る人を見送りながら、
自分だけが取り残されていくような感覚があった。
最終日、定例のオンライン会議を開くと、
順番にログアウトしていくアイコンが小さく揺れた。
誰もいなくなった画面に、
自分の顔だけがぽつんと残る。
その静けさの中で、
私はようやく、本当に彼女たちがいなくなることを実感した。
40代になると、別れが増える理由
40代になってから、別れが少しずつ増えた気がする。
職場では人が減り、
プライベートでも、長く寄り添ってきた存在が旅立っていった。
経営のことを考えれば、誰かが辞めるのは仕方ない。
頭ではそう理解している。
けれど、私は人間だから、
やっぱり心のどこかにぽつんと穴があく。
今年の6月、愛犬のチョコが天国へ行った。
12年間、毎日をともにしてきた小さな男の子。
在宅勤務の孤独も、チョコがいれば怖くなかった。
会議の合間にこちらを見上げる瞳、
おやつの袋を開ける音に反応して跳ねる足音。
そんな些細な瞬間が、
仕事と日常の境界をやさしく溶かしてくれていた。
今は昼間の家の中で動くのは私だけになった。
リモート会議も静かで、
誰かの笑い声が遠い記憶になっていく。
「仕方ない」ことが積み重なるたびに、
心は少しずつ“空白”を覚えていくのだと思う。
けれど、その空白の時間に私は手帳を開く。
残された静けさを埋めるように、
インクの線をひとつずつ積み重ねていく。
もしかしたらそれが、
40代の私なりの“別れの受け止め方”なのかもしれない。
変わる職場と、変われない私
この数年、職場も人も、
そして自分の体までもが少しずつ変わっていくのを感じている。
チームのメンバーが入れ替わり、
仕事の進め方も、使うツールも、気づけば全部新しくなった。
変化は生きる上での常だとわかっている。
けれど、私はまだその波にうまく乗れずにいる。
若いころは、変わることが刺激だった。
新しい環境、新しい人、新しい仕事。
どれも「自分を成長させるもの」として受け止められた。
でも今は、同じ言葉を聞いても少し怖く感じる。
変化のスピードが、心と体の歩幅に合わなくなってきたのだと思う。
最近、体の衰えをはっきりと感じる。
夜まで集中できなくなったし、
長く座るだけで腰が重くなる。
それでも画面の前では、
“これまでと同じようにできる自分”を装っている。
本当は、私は今まさに「変わっている最中」なのだ。
外の世界だけじゃなく、自分の内側も静かに変わっている。
でも、その変化を受け入れるのには時間がかかる。
心が現実に追いつくまでの、その間にできることは、
せめて手帳の上で、自分を見失わないように記録すること。
“去る人”と“残る人”——その間で揺れる気持ち
別れが重なるたびに思う。
残る側と去る側、どちらがつらいのだろうと。
見送る私は静かに日常を続けるけれど、
心の奥では何かを失った感覚がずっと消えない。
この数年で、一緒に働いてきた仲間たちは
全国へと散っていった。
北から南まで、さまざまな地域に暮らす人たちと
同じ時間を共有できたことは、
在宅勤務という働き方だからこそ得られた特別な経験だった。
カメラ越しにしか知らないけれど、
誰もがそれぞれの暮らしの中で光を持っていた。
子どもが学校から帰る声、
遠くで聞こえる夕方のチャイム、
天気の話でつながるその瞬間。
リアルでは絶対に出会えなかった人たちが、
いつの間にか私の“日常の風景”になっていた。
だからこそ、別れは静かに沁みる。
もう会議で顔を合わせることはないけれど、
誰かの笑顔や口ぐせが、
ふと画面の向こうに浮かぶことがある。
残る私は、彼女たちの分までこの場所を守るのか、
それとも新しい一歩を踏み出すのか——
その答えはまだ出ていない。
ただひとつ言えるのは、
出会えたこと自体が、もう“報われている”ということ。
全国に散らばる仲間たちの存在が、
いまも私の働き方を静かに支えてくれている。
変化の中で心を整える、小さな養生
最近、心の置き場所がわからなくなる。
仕事もうまくいかず、
プライベートでも思うようにいかない日が続く。
画面の向こうで人が減り、
家の中でも、いつもそばにいた存在がいなくなった。
ふと気づくと、私はずっと何かを探している。
でも、その“何か”が何なのかも、よくわからない。
心は、いつもふわふわと宙に浮いているようだ。
手を伸ばしても、どこにも着地しない。
けれど、そんな日々の中でも、
手帳だけは私を見失わない。
開けば、昨日の私が静かに待っていて、
「今日も生きてたね」と声をかけてくれる。
整えることも、前に進むことも、
今の私にはまだうまくできない。
でも、ページにペン先を滑らせると、
少しずつ呼吸が整っていく。
うまくいかない現実を否定せず、
そのまま書き留める。
それが今の私にできる、
いちばん小さな“養生”なのだと思う。
今日も小さな養生を。
Wrote this article この記事を書いた人
ミカ
手帳と暮らすミカです。 薬剤師・和漢薬膳師として、心と体の「めぐり」を見つめながら暮らしています。 40代を迎え、心や体の声に耳を澄ます日々。 手帳を開く時間は、私にとって小さな養生であり、静かな儀式です。 ここでは、ほぼ日手帳に綴る日々の出来事や心の揺れを通して、 「人間らしく生きる」ためのヒントを探しています。