朝5時に起きるだけで限界…。40代の“疲れやすさ”と向き合う日|子どもの試合の日は心も体も揺れる

朝5時に起きるだけで限界…。40代の“疲れやすさ”と向き合う日|子どもの試合の日は心も体も揺れる

朝5時に起きる40代の“疲れ方”が変わってきた日

朝5時。
真っ暗な部屋でアラームを止めた瞬間、胸の奥にふっと重さが沈んだ。

「ほんとは、もっと眠っていたいのに。」

休日なのに、早起きしなきゃいけない現実。
布団のぬくもりにしがみつきたくなる朝だった。

体を起こそうとすると、まず感じたのは“だるさ”。
痛みじゃなくて、全身がゆっくり沈んでいくような重さ。
40代になってから、この“だるさ”の質が変わった気がする。

前日の疲れが翌日まで残っている。
寝ればリセットされていた頃とは違う。
「今日は元気!」と言える朝が、ほとんどない。

それでも、子どもの試合の日は起きるしかない。
母のスイッチが、静かに入る。

前日の夜も眠りは浅かった。
“早く寝なきゃ”と思うほど、目が冴えてしまう。
考えたって仕方ないのに、心がそわそわして眠気が逃げていく。

こういうところにも、40代の“疲れやすさ”がにじむ。

キッチンの灯りをつけると、あたたかい光がふわっと広がった。
その瞬間、さっきまでの重さが少し薄れていく。

最近思う。
疲れが抜けないのは、怠けているからじゃない。
無理を押し切れなくなった体が、ただ正直になっているだけ。

だから、この朝の“重さ”も、“だるさ”も、
ちゃんとサインとして受け取ってあげたい。

今日も、自分の体と相談しながら始める一日だ。

子どもの試合の日は、母の心も体もざわつく

試合の日の朝は、
家の中の空気がいつもと少し違う。

まだ薄暗い時間なのに、
子どもはすでに気持ちが試合モードで、
私のほうが置いていかれそうになる。

「今日、頑張るね」
そう言う声の奥には、
緊張や楽しみが入り混じった、
子どもなりの“戦う準備”がある。

その横で私は、
湯気の立つカップを両手で包みながら、
胸の奥がそわそわしていくのを感じていた。

応援するだけの立場なのに、
なぜか体まで落ちつかない。
母親って、子どもの気持ちを
まるごと自分の中へ取り込んでしまう生き物なんだと思う。

会場に向かう車の中でも、
無言の時間が続く。
外に広がる朝の光はきれいなのに、
私の心は少し波立っていた。

「うまくできるかな」
「またあの子にぶつかって泣いたりしないかな」
そんな小さな心配が、
胸の中で静かにふくらんでいく。

でも、これって子どもの成長を見守るときの、
あの独特の“ざわつき”なんだと思う。

ワクワクでもなく、
不安だけでもなく、
ただ、子どもの一日がうまくいってほしいという願い。

きっと、母の心は
ずっとこの揺れを抱えて生きていくんだろう。

試合会場に着き、
子どもが仲間の元へ走っていく背中を見た瞬間、
その揺れはさらに大きくなる。

「行ってらっしゃい」と声をかけながら、
胸の奥がぎゅっと締めつけられるような感覚。
誇らしくて、心細くて、
ちょっとだけ置いていかれるような。

でもこのじんわりした感覚こそ、
子どもが成長している証なんだよね。

母はただ見守ることしかできない。
それが苦しく感じる日もあるけれど、
それ以上の喜びや、あたたかさもくれる。

試合の朝は、
いつもほんの少しだけ、
私の心も体も揺れていく。

頑張る子どもの姿を見ると、嬉しいのに胸がぎゅっとなる理由

コートの端に立って、
子どもが走り出す姿を見つめていると、
胸の奥がふっと締めつけられる瞬間がある。

泣きたいわけじゃない。
不安だけでもない。
ただ、あの小さな背中が
精一杯に今日を生きている姿に、
どうしようもなく心が揺さぶられてしまう。

子どもって、
思ったよりずっと強くて、
思ったよりずっと繊細で、
それなのに前に進もうとする。

その姿を目の前で見たとき、
「頑張れ」という気持ちの奥に、
言葉にできない感情が波のように押し寄せてくる。

あれは何なんだろう。

誇らしさ?
切なさ?
置いていかれるような寂しさ?
それとも、ただの“愛しさ”なのかな。

試合中の子どもは、
家にいるときとは全然違う顔をしている。
仲間と笑ったり、悔しがったり、
自分の世界で戦っていて、
その姿が少し遠く感じることもある。

「ああ、この子はちゃんと成長してるんだな」
そう実感した瞬間、
胸がきゅっとなる。

嬉しいはずなのに、
同じくらい胸が痛い。

母親って、
喜びのすぐ隣に“切なさ”がある生き物なのかもしれない。

子どもが点を決めて振り向いたとき、
私を探すように目を向けることがある。
その一瞬の表情が、
どうしようもなく愛しくて、
この胸の締めつけは、きっとそのせいだ。

いつかもっと大きくなって、
親に見せる背中なんて
ほとんどなくなってしまうんだろう。

だから、
今こうして目の前で頑張る姿を見て、
胸がぎゅっとなるのは、
当たり前なのかもしれない。

その痛みは、
悲しみじゃなくて、
「ちゃんとここにいる」という
確かな証のようなもの。

子どもが頑張る日は、
母の心もまた、
そっと強くなっていく。

帰宅すると一気に崩れる“夕方の疲労波”|40代が抱える現実

試合が終わって家に戻ったのは、
まだ夕方の明るさが残る時間だった。

玄関のドアを閉めた瞬間、
ふっと体の力が抜けた。
外で張りつめていた何かが、
一気にほどけてしまったように。

ソファに腰を下ろしたら、
そこから動けなかった。
立ち上がろうと思っても、
体の奥に重しが入ったみたいに動かない。

「ああ、これが“夕方の疲労波”かもしれない。」

40代になってから、
夕方に崩れるように疲れが押し寄せる日が増えた。
朝のだるさとはまた違う、
もう気力では押し返せない種類の疲れ。

若い頃みたいに、
勢いで乗り切ることもできない。
肩にかかる家事の重さも、
子どもの予定も、
全部いったん置いてしまいたくなる。

今日はとくに、
試合の緊張や、
外で気を張っていた時間が長かったせいか、
体がすっと沈んでいくような感覚があった。

「そろそろ夕飯どうしよう」
そう思った瞬間、
すべてのやる気がふっと消えていく。

メニューを考えることも、
包丁を握ることも、
重たくて仕方ない。

こういう日、昔の私は
“甘えているだけだ”と自分を責めていた。

でも、今は少し違う。

40代の体は、
ちゃんと疲れるようにできている。
睡眠の質も変わるし、
ホルモンの波も揺れやすい。
一日外に出ただけで、
エネルギーは想像以上に消耗する。

だから夕方のこの“どっと沈む感覚”は、
怠けでも、気のせいでもなくて、
ただのサインなんだと思う。

体が「今日はもう休んで」と言っているだけ。

部屋の静けさの中で、
そのサインを無理に押しつぶさず、
ただ受け入れることが、
今の私に必要なことなんだろう。

夕方の疲れに逆らわず、
いったん呼吸を整えたら、
少しだけ体が軽くなる。

その繰り返しで、
40代の毎日をなんとか進んでいる。

ご飯を作れない夜があってもいい。妹家族と食べたラーメンがくれた救い

夕方の“疲労波”にすっかり飲み込まれて、
体が沈むように動けなかった。
40代になってから、夕方の疲れ方がまるで別物になった。
「夕飯作れない…」と思う瞬間が、以前よりずっと増えた。

そんなとき、ふと妹に連絡してみた。
「今日、ラーメン行かない?」と。
“作れない日”は、誰かと食卓を共有するほうが気持ちが軽くなる。

妹家族と合流して、
湯気のたつ暖簾をくぐった瞬間、
スープの香りが体の奥に染み込んでいくようだった。
子どもたちの楽しそうな声が混ざり合って、
それだけで心の緊張がふわっとほどけていく。

ラーメン屋のテーブルに並ぶ丼。
こういう夜、外食は“手抜き”じゃなくて、
40代の体を守るための小さな選択なんだと思う。
無理して台所に立つより、こうして誰かに頼ったほうが、
翌日の自分が元気でいられる。

妹と向き合って、
「わかる、私も最近すぐ疲れる」と笑ってくれたとき、
ああ、同じ世代を生きてるんだなと安心した。
母になっても、妻になっても、
こうして誰かに“共感してもらえる夜”は必要だ。

麺をすする音、子どもたちのおしゃべり、
湯気の向こうで揺れる家族の時間。
にぎやかさと温度が混ざり合って、
今日の疲れをそっと上書きしてくれた。

帰り道の夜風がやさしかった。
作れなかった日があってもいい。
疲れた夜は、外に頼ることも立派な養生。

自分に正直な選択が、
明日の自分を守ってくれるんだと思う。

今日も小さな養生を。



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Wrote this article この記事を書いた人

ミカ

手帳と暮らすミカです。 薬剤師・和漢薬膳師として、心と体の「めぐり」を見つめながら暮らしています。 40代を迎え、心や体の声に耳を澄ます日々。 手帳を開く時間は、私にとって小さな養生であり、静かな儀式です。 ここでは、ほぼ日手帳に綴る日々の出来事や心の揺れを通して、 「人間らしく生きる」ためのヒントを探しています。

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