「共感できない」と感じた瞬間に残った違和感
「これは、私が共感できないだけなんだろうか。」
そう思った瞬間、胸の奥に小さな引っかかりが残った。
はっきりした怒りでも、強い拒否でもない。
ただ、どこか噛み合っていない感覚。
言葉にしづらいけれど、確かにそこにあった違和感。
世の中には、「共感」を軸にしたサービスや仕組みがあふれている。
誰かの気持ちに寄り添うこと。
感情を共有すること。
それ自体は、とても大切な価値だと思う。
けれど、そのときの私は、その“共感”にどうしても乗れなかった。
説明は理解できる。
理屈もわかる。
でも、心が動かない。
「共感できない自分は、冷たいのかな」
「感性がずれているのかな」
そんな問いが、あとから静かに追いかけてきた。
40代になると、こうした違和感に出会う場面が増えてくる。
若い頃のように、勢いや理想だけで動けなくなる。
これまで積み重ねてきた経験や価値観が、
無意識のうちに“フィルター”として働き始めるからだと思う。
だからこそ、共感できない瞬間は、
単なる「合わなかった」という話では終わらない。
自分がこれまで、何を大切にしてきたのか。
どんな場面で、心が動いてきたのか。
その輪郭が、浮かび上がってくる。
このとき感じた違和感は、
まだ答えになっていなかった。
ただ、「何かが違う」という感覚だけが残っていた。
それでも、その感覚をなかったことにはできなかった。
共感できない、という事実よりも、
共感できなかった理由を、自分でちゃんと見つめる必要がある
そんな気がしていたから。
違和感は、不快なものとして片付けられがちだけれど、
ときどき、それは
「立ち止まって考えていい」という合図でもある。
この瞬間の小さな引っかかりが、
あとから思考を深める入り口になることを、
そのときの私は、まだ知らなかった。
共感できないのは、感性がズレているから?
共感できなかった出来事を振り返るたびに、
何度も同じ問いが浮かんだ。
「私の感性が、ずれているだけなんじゃないか。」
共感できない理由を外に探すより、
自分の内側を疑ったほうが早い気がしていた。
理解力が足りないのかもしれない。
視野が狭いのかもしれない。
もっと柔らかく受け止められたらよかったのかもしれない。
そうやって考える癖は、
長いあいだ自然に身についていたものだった。
20代、30代の頃は、
「わからない=努力不足」
「共感できない=未熟」
そんな価値観の中で生きてきたように思う。
だから、共感できなかったときも、
まずは自分を調整しようとした。
視点を変えてみる。
前提を疑ってみる。
一度フラットに戻って、ゼロから考え直す。
それは決して間違いではない。
むしろ、大人として誠実な態度だったと思う。
けれど、何度そうしても、
心の奥は動かなかった。
理解はできるのに、納得できない。
説明としては正しいのに、腹落ちしない。
頭では「良い」と判断しているのに、
感情がついてこない。
このズレは、
感性が壊れているからでも、
冷たくなったからでもなかった。
ただ、これまで積み上げてきた経験が、
「これは違う」と静かに教えてくれていただけだった。
40代になると、
自分でも気づかないうちに
判断の基準が変わってくる。
新しさや勢いよりも、
実際に続けられるか。
誰かを消耗させないか。
自分自身が、無理なく関われるか。
そうした視点が、
無意識のうちに根を張っていく。
だから、共感できないと感じたのは、
感性のズレではなく、
価値観がはっきりしてきた証拠
だったのかもしれない。
若い頃なら見過ごしていた違和感を、
今はもう、見過ごせなくなっただけ。
そう思えたとき、
「共感できない自分」を責める気持ちは、
少しずつ薄れていった。
仮説を立て直す前から、違和感は消えていなかった
正確に言えば、
この施策を「考えていた側」だったわけではない。
むしろ、最初から、
ひとりだけ少し距離を取って見ていた。
上から降りてきた構想を聞いたとき、
理屈は理解できた。
資料の中身も、筋は通っていた。
「共感」を軸にした考え方自体を、
否定したいわけでもなかった。
それでも、心が動かなかった。
私は、日々ユーザーと向き合っている。
声にならない不満や、
言語化されない違和感を、
現場で何度も見てきた。
だからこそ、
「これは、本当に届くだろうか」
そんな疑問が、最初から消えなかった。
上層部は、まだユーザーを知らない。
数字や想定の中では理解していても、
生活の文脈や、感情の揺れまでは、
まだ掴みきれていない。
一方で、現場にいると、
“共感してほしい人たち”が
どんな言葉に疲れ、
どんな余白を求めているのかが、
手触りとして伝わってくる。
だから、施策が動き出してからも、
私は静かに結果を見ていた。
案の定、うまくはいかなかった。
大きな失敗ではないけれど、
手応えも、広がりも、感じられない。
「やっぱり、そうだよね」
自分の仮説が正しかった、
というよりも、
現場で見えていた景色と、
上から見ていた景色が、
そもそも違っていた
ただそれだけのことだった。
何度やり方を調整しても、
根っこのズレは埋まらない。
共感できなかったのは、
感情の問題ではなく、
立っている場所の違いだった。
何度やっても同じなら、それは「向いていない」サインかもしれない
うまくいかなかった理由を、
もっと丁寧に探そうとすれば、
いくらでも言葉は出てくる。
伝え方が悪かったのかもしれない。
タイミングが早すぎたのかもしれない。
説明が足りなかっただけかもしれない。
けれど、現場で見えていた景色は、
最初からほとんど変わっていなかった。
共感を前提にした施策なのに、
その“共感”が、どこか空回りしている。
寄り添っているようで、
実は、距離が縮まっていない。
何度調整しても、
違和感の位置だけは動かなかった。
40代になると、
こういう感覚に出会うことが増えてくる。
若い頃なら、
「もう少し頑張ればなんとかなる」
そう思えていた場面でも、
今は、別の答えが浮かんでくる。
それは、
「向いていないのかもしれない」
という考え方だ。
向いていない、という言葉は、
少し冷たく聞こえる。
投げ出しているようにも見える。
でも実際は、その逆だと思っている。
向いていないことを、
無理に続けない。
合わない場所で、
自分や誰かを消耗させない。
それは、逃げではなく、
経験を重ねたからこそできる判断だ。
現場にいると、
ユーザーがどこで立ち止まり、
どんな瞬間に疲れてしまうのかが見える。
だからこそ、
「これは続かない」という感覚も、
早い段階でわかってしまう。
何度やっても同じ結果になるなら、
それは努力不足ではない。
能力の問題でもない。
ただ、方向が違っているだけ。
そのサインに気づけたことは、
失敗ではなかった。
むしろ、
次に進むための静かな合図
だったのだと思う。
共感できない自分を責めなくなったとき、次が見えた
以前の私なら、
共感できなかった自分を、
もう少し責めていたと思う。
「理解しようとする努力が足りない」
「歩み寄る姿勢が足りない」
そんな言葉を、
自分に向けて投げていたはずだ。
でも今回は、
そうはならなかった。
現場で見てきた景色と、
自分の中に積み重なってきた感覚を、
無理に否定しなくてよかった。
共感できなかったのは、
冷たいからでも、
ズレているからでもない。
ただ、立っている場所が違っただけ。
そう思えたとき、
気持ちはすっと軽くなった。
共感できない違和感は、
「否定」ではなく、
「判断」だったのだと思う。
何を大切にしたいのか。
どこに力を使いたいのか。
どんな人たちと、
どんな距離感で関わりたいのか。
それらが、
少しずつ言葉になる。
40代になると、
すべてに共感しなくてもいい、
という選択肢が見えてくる。
共感しないことは、
切り捨てることではない。
境界線を引くことでもない。
ただ、
自分が無理をしない場所を知ること。
そして、
ユーザーにとっても、
無理のない形を探し続けること。
共感できなかった経験は、
次に進むための失敗談ではなく、
自分の立ち位置を確かめるための材料
になっていた。
違和感は、
間違いを知らせる警告音ではない。
方向を調整するための、
小さなコンパスだ。
それに気づけた今は、
共感できなかったあの瞬間も、
無駄ではなかったと思えている。
今日も小さな養生を。
