AIの動画が増えすぎて、心がざわついた日
SNSを眺めていたら、ある美容広告が流れてきた。
「塗るだけでシワが消える」「たった数日でハリ肌に」——
そんな言葉とともに、
次々と現れる女性たちの顔に、
見る間に深いシワが消えていく。
最初は驚いた。
「本当に? こんなに変わるの?」
そう思いながら、指を止めて見入ってしまった。
けれど、見れば見るほど、どこか不自然だった。
表情の動きがわずかに硬く、
笑顔に“生きている温度”がない。
画面の右下、見えないくらい小さな文字で
「AI動画です」と書かれていた。
気づいた瞬間、背筋がすっと冷えた。
最初から本物のように見せかけて、
人の心をつかもうとする。
それが「広告だから仕方ない」と言われても、
私はどうしても納得できなかった。
嘘をつくために精密に作られた映像。
そこには、きれいに整いすぎた“偽物の希望”があった。
いつのまにか、AIは便利な道具を超えて、
“信じるかどうか”の境界線をあいまいにしている。
そんな動画を見たあと、
しばらくスマホを閉じても、胸のざわめきは消えなかった。
“美しさ”の基準が、誰のものでもなくなっていく
最近、SNSを開くたびに思う。
目に入るもののほとんどが、AIで作られた画像や動画になってきた。
完璧に焼き上がったケーキ、つやつやの野菜、
盛り付けまで計算しつくされた料理写真。
見る人の心をつかむように、
一寸の狂いもない美しさで並んでいる。
だけど、そのどれもが現実離れしている。
家庭の台所には、そんな完璧な光なんて差さない。
私たちの暮らしはもっと、
ごちゃごちゃして、温度があって、手の跡が残っているはずなのに。
美容の世界も同じだ。
AIが作る女性たちは、全員がスレンダーで、
肌にはシワひとつない。
「40代です」と紹介されても、
どこかのモデルのように完璧で、まるで人形みたいだ。
たしかに美しい。
でもその美しさには、
息づかいも、心の揺れも、何もない。
見ているうちに、
心がひんやりと冷えていくのを感じる。
AIが作る“理想の美”は、
誰のためのものなんだろう。
気づけば、私たちは「本物よりも整った偽物」を
“きれい”と呼ぶようになっている。
それがなんだか、怖い。
便利さの裏で、私たちは何を失っているのか
AIの進化そのものを否定したいわけじゃない。
仕事でも日常でも、たしかに助けられている場面は多い。
でも、それでもやっぱり思う。
あまりにも“人の温かさ”が消えていく気がする。
シワのある女性の顔を見ても、
そこにはきっと、長い時間と経験が刻まれている。
涙も笑顔も、悩みも努力も、
その人の人生そのものが線になって表れているのだと思う。
だからこそ、そのシワは美しい。
けれど、AIが作る“美”の世界では、
そうした時間の重なりが切り取られてしまう。
「完璧」が当たり前になり、
“過程”が見えないものばかりが称えられる。
なんでも早く、楽に、きれいに作れることが正義みたいになっている。
でも、本当のぬくもりは、
手間や試行錯誤の中にあるのだと思う。
失敗して、悩んで、
それでも自分なりに形を探すその時間こそが、
人間らしさの証なんじゃないだろうか。
AIが進化するたびに、
私たちは「人が作る意味」を少しずつ失っている。
それが、いちばん怖い。
それでも、わたしは“人のあたたかさ”を信じたい
AIがつくる映像は完璧で、
余白も歪みもなく、ひとつのミスも許さない。
それなのに、なぜだろう。
人が撮った不器用な写真のほうが、
心を動かすことがある。
私は、やっぱり「真実」であってほしいと思う。
きれいに飾られたものより、
生活のにおいがして、少し散らかった部屋のほうが落ち着く。
誰かの笑い声や、ため息や、手の跡。
そういう“生きている証”みたいなものに
人のあたたかさを感じる。
AIが描く世界は、光も色も完璧だ。
でも、そこに「人の心の温度」はない。
きれいすぎて、触れたら消えてしまいそうだ。
だからこそ、私は不完全なものに惹かれる。
試行錯誤の跡が見えるもの、
ゆらぎや迷いがにじむもの。
そこにこそ、ほんとうの美しさが宿る気がする。
AIが進化しても、
人の手がつくるぬくもりや、
人の言葉が持つ弱さを、私は信じたい。
それが“生きている”ということだと思うから。
今日も小さな養生を。
おまけ
先日ずっと行きたかったクレープ屋さんに行った。


あんみつクレープ食べた。