
嫌なことを手放すと決めた日
最近、ときどきふっと思う瞬間がある。
「もう無理したくないな」と。
大きな出来事があったわけじゃない。
ただ、仕事が思うように進まなかったり、
家の中で気を張ってしまったり、
夫との距離感に“そっと構えてしまう自分”がいたり。
そういう小さな負荷が、
気づかないうちに積み重なっていって、
ある日、胸の奥でぽつんと言葉になった。
「嫌なものをひとつずつ、手放していけばいいんじゃないか」
まるで自分の心が、やっと本音を言ってくれたみたいだった。
人生がもう折り返しだと思うと、
これから先を我慢で埋め尽くすなんて、
なんだか違う気がしてくる。
若い頃は、我慢することが“正しい大人”だと思っていた。
仕事で踏ん張ることも、家庭で空気を読むことも、
自分の気持ちを脇に置いて、
“うまく回す”ために必死だった。
でも、40代に入った今の私は、
そのやり方に少しだけ疲れている。
完璧にこなしたいわけじゃないのに、
つい肩に力が入ってしまう。
その癖が、長い時間をかけて体に染みついてしまった。
だからこそ、
思い切り変える必要はないけれど、
“嫌なものを減らす” という選択肢を
そろそろ自分に許してあげてもいいのかもしれない。
たとえば、苦手な人との距離を少し置くこと。
苦しい仕事のやり方を見直すこと。
疲れた日は、堂々と休むこと。
小さなソフトクリームをひとつ買うだけでも、
心の中の“好き”の灯りがひとつ増えるような気がした。
無理に頑張らなくていい。
完璧じゃなくていい。
嫌なことをそっと手放していくことで、
未来の私が少し笑えるなら、それでいい。
“もう半分過ぎた人生”を思った瞬間に生まれた気づき
いつからだろう。
「人生って意外と短いんじゃないか」と
はっきり思うようになったのは。
若いころは、未来なんて尽きる気がしなかった。
やりたいことは後回しにしても、
またいつか時間はいくらでもある——
そんなふうに無邪気に信じていた。
でも、40代になった今、
一年がまるで一瞬の季節のように過ぎていく。
気づけば春が終わり、
気づけば年末が来て、
その繰り返しの中でふと立ち止まった瞬間、
思ったのだ。
「あれ、人生って思っていたよりずっと短いのかもしれない」
そう思ったとき、胸の奥が
夕焼けみたいに淡く染まった。
焦りというより、
“残された時間を大切に使いたい” という
静かな願いのほうが強かった。
これからの人生は、
嫌なことを抱えたまま走り抜けるための時間じゃない。
“好きなもの”“心地よいもの”“楽しいもの”で
少しずつ満たしていくための時間なんだと思った。
ソフトクリームを手にした日、
それはほんの小さな行動だったけれど、
「好き」を自分に許可した瞬間でもあった。
たったそれだけで、
一日の彩度が少し上がった気がした。
これから先の十年、二十年も、
同じようにあっという間に過ぎるだろう。
だからこそ、
無理に我慢を積み上げて消耗してしまうより、
“好き”を積み重ねて生きるほうが
ずっと私らしい気がしている。
人生の後半は、
思っていたよりもずっと自由で、
選び直せる時間にあふれているのかもしれない。
我慢ばかりの生き方から、そっと降りてみる
気づけば、私はずっと強がって生きてきた。
誰かに弱音を吐くより先に、
「大丈夫」「なんとかなる」と自分に言い聞かせてしまう癖。
それは子どものころから続いている、
私の“生き方の癖”みたいなものなのだと思う。
誰かに気持ちを見せるのが苦手で、
相談という行為がどうしても自然にできなかった。
弱さを見せたら嫌われるんじゃないか、
迷惑をかけるんじゃないか——
そんな不安がいつも心の奥に潜んでいた。
だから私は、苦しさも疲れもぜんぶ胸の内側に押し込めて、
上手に笑うことでやり過ごしていた。
夫に対してもそうだった。
結婚して何年経っても、
本音をさらけ出すことがなぜか怖かった。
嫌いなわけじゃない。
むしろ大切に思っているのに、
自分の弱さを見せる距離だけはどうしても縮まらない。
気持ちを見せた瞬間、
壊れてしまう何かがあるようで、
私はずっと構えていたのだと思う。
でも、40代になった今、
その“強がりの鎧”が少し重く感じるようになった。
守ってくれていたはずのものが、
いつの間にか自分の自由を奪っていたことに気づいたのだ。
弱音を言えないまま抱えた疲れは、
心の奥でじわりと溜まっていく。
そしてある日、
「もう無理したくない」とぽつりと漏れた言葉は、
本当はずっと前から言いたかった本音だったのかもしれない。
我慢にしがみつくより、
そっとその場所から降りてみる。
誰かに弱さを預けることは、
自分を甘やかすことでも怠けることでもない。
ただ、これからの人生を
もっと軽く、もっと自然体で生きるための
ひとつの選び方なのだと思う。
強がりを手放した先にある静かな自由を、
私はようやく見つけ始めている。
“好き”を増やすと、世界の見え方が変わる
「好きだな」と思える瞬間は、
いつだって静かに訪れる。
派手な出来事でも、特別な体験でもなくて、
ただ自分の感覚がふっと緩むような、
そんなささやかな時間の中にある。
私にとってそれは、
朝の手帳を書く時間だ。
まだ家の中が完全に動き始める前の、
あのひんやりとした静けさ。
カップにそっと注いだコーヒーの香りが、
小さく部屋に広がっていく。
その瞬間だけは、外の世界のざわめきが一切入ってこない。
ただ、私と紙のページだけが向き合っている。
手帳に言葉を書き込むたび、
自分の輪郭が少しはっきりしていく気がする。
昨日の気持ちも、今日の体調も、
なんとなく飲み込んだ感情も、
すべてこの朝の余白に吸い込まれる。
“好き”で満たされる時間というのは、
本当に特別だ。
たった数分でも、
その後の一日をまるごと支えてくれる力がある。
それに気づいてから、
私は無理に頑張るより、
“好き”をひとつずつ増やして生きたいと思うようになった。
誰にも弱音を見せられなくて、
つい強がってしまう日もある。
仕事で疲れ切った夜もある。
家の空気に気を張り続けて、
胸の奥がしんと痛むことだってある。
そんな私を、
一番最初に救ってくれるのは、
いつだって“好きなもの”なのだ。
朝の静けさ。
インクのにじみ。
白いページの余白。
コーヒーの温度。
全部が、私を少しずつ軽くしてくれる。
大きなストレスをなくそうとしても、
現実は思うように動かない。
でも、好きなものを足していくことは、
今日からでも、今からでもできる。
“好き”をほんの少し増やすだけで、
世界がやわらかく見え始める。
その小さな変化が、
私の毎日をもう一度、ゆっくりあたためてくれている。
これからの40代を、やさしく選び直す
これから先の人生を考えるとき、
私はもう「頑張り続ける自分」でいる必要はないのだと思う。
むしろ、心と体の波を丁寧に見つめながら、
その揺れに寄り添うように暮らしたい。
40代に入ってから、
体の変化は静かに、でも確実に訪れ始めた。
生理の周期が乱れたり、
頭痛が抜けない日があったり、
理由のわからない倦怠感に包まれたり。
これがきっと、更年期へ向かう“予告”のようなものなのだろう。
昔の私は、こういう変化を全部、
「気のせい」「まだ大丈夫」と片付けてきた。
でも今は違う。
この体でこれから先を生きていくのだから、
その声を聞かなければ、私が私を見失ってしまう。
その時々の自分に合わせて生きる。
できない日は、できないままでいい。
動ける日は、思いきり楽しめばいい。
体も心も、波があるほうが自然なのだから。
手帳のページに少しずつ気持ちを書き留めるようになって、
その波に気づける自分になれた気がする。
昨日と今日の違いを知ることで、
「じゃあ今日は無理しなくていい」と
自分に優しく言えるようになった。
強がりで生きてきたこれまでの私には、
そういう柔らかさが欠けていた。
けれど、人生の後半は、
その欠けていた部分をそっと拾い集めていく時間なのかもしれない。
心と体の波を大切にしながら、
その時の自分にできることを選んでいく。
それだけで、未来の景色はきっとやさしく変わる。
無理に背伸びをしなくても、
誰かに合わせようとしなくてもいい。
“こうありたい私”を、
もう一度選び直せるのが40代なのだと思う。
この先の人生が長いか短いかはわからない。
でも、その長さを測るよりも、
今いる自分をどう扱うかのほうが大切だ。
揺れる体と、揺れる心と、
そのどちらも抱きながら生きていく。
それが私の、これからの生き方だ。
今日も小さな養生を。
Wrote this article この記事を書いた人
ミカ
手帳と暮らすミカです。 薬剤師・和漢薬膳師として、心と体の「めぐり」を見つめながら暮らしています。 40代を迎え、心や体の声に耳を澄ます日々。 手帳を開く時間は、私にとって小さな養生であり、静かな儀式です。 ここでは、ほぼ日手帳に綴る日々の出来事や心の揺れを通して、 「人間らしく生きる」ためのヒントを探しています。