【得意より「好き」をひとつ】習いごとに迷う40代母が気づいた、比べない子育て

【得意より「好き」をひとつ】習いごとに迷う40代母が気づいた、比べない子育て

「上手にできるか」だけじゃない。子どもの背中を見つめる時間

娘は、運動が得意なタイプではない。
恥ずかしがり屋で、みんなの前に出ると急に体が固まってしまう。
集団で何かをする習いごとに連れて行っても、いつの間にか輪から離れ、私のそばに戻ってきてしまうような子だった。

まわりの子たちは、スイミングだ、ダンスだ、英語だと忙しそうに駆け回っている。
その姿を目にするたび、私は心のどこかで焦っていたのかもしれない。
「この子は何にも興味がないのかな?」
「続けられるものなんて、あるのかな?」
そんな疑いが、静かに胸を締めつけていた。

ある日、ふと、自分の子どもの頃の話をしてみた。
習字に通っていた日々、墨の匂い、半紙に落ちる筆の音。
心がすっと静かになっていく、あの時間が好きだったこと。

すると娘が、少し恥ずかしそうに、でも確かにこう言った。

「やってみたい。」

その言葉に、胸の奥がすこしだけ熱くなった。
“興味がない”と思い込んでいたのは、私の方だったのかもしれない。

体験の日、娘は見たことのない集中した表情で、筆を握っていた。
終わったあと、顔を赤くしながら笑って言った。

「楽しかった!」

それが、すべてのはじまり。

はじめは、思うように線が引けず、半紙がくしゃくしゃになる日もあった。
でも、娘は逃げなかった。
一文字ずつ、丁寧に、黙って真面目に向き合っていた。
その背中が、とてつもなくまぶしく見えた。

いつの間にか、娘の字は静かに上達していた。
ノートに並ぶ文字が、少しずつ凛として、すっと息をしているように見えた。
その変化に気づいたとき、胸の奥で小さな灯りがともった。

あぁ、良かった。

「得意」を増やすんじゃなくていい。
「勝てる」必要もない。
ただ、自分の手で、自分の世界を少しずつ整えていく時間を持てたこと
その事実こそ、娘にとっての大切な宝物になる気がした。

いつか大人になって、誰かに手紙を書く日が来たら。
自分の名前を書いた紙が、そっと胸を張れる一枚なら。

その未来を思うだけで、少し泣きたくなる。

集中できる場所を見つけたことは、子どもの強さになる

習字を始めてしばらくしてから、娘の中にひとつの変化が生まれた。
目に見える上達よりも先に、「集中できる時間」が育っていったのだ。

子どもにとって、心を落ち着けてひとつのことに向き合う時間は、実はとても難しい。
まわりの声や音、空気の流れに気持ちがさらわれてしまうことは、珍しくない。
特に、恥ずかしがり屋の娘にとっては、集団の中で追いつこうとするプレッシャーが、
集中を遠ざけてしまう瞬間が多かった。

だからこそ、習字の教室で見せた静かな表情は、
私にとって驚きと喜びが混ざったものだった。

墨の香り、筆の重さ、白い紙の前に座る静けさ。
そのすべてが、娘にとって心を整えるスイッチになったのだと思う。
半紙の上で筆が紙を滑る音だけが響く空間で、
娘は、誰とも比べられず、誰に見られることもなく、
ただ「自分のペースで進むこと」を許された。

習字には、うまく書けない日がある。
思ったように線が引けず、何枚も紙を重ねていく日もある。
でも、その積み重ねは娘の中で
“失敗してもいい”という安心感につながっていったのだと思う。

集中できるようになったという変化は、
ただ落ち着いたのではなく、
自分の世界を守る方法を見つけられたという強さだ。

学校でも、家庭でも、いつも周りに何かがある。
子どもの世界は、大人が思うよりずっと騒がしく、忙しい。
そんな中で、心を鎮めることができる場所を持てることは、
大きな力になる。

賞状がもらえなくてもいい。
目に見える成果がなくてもいい。
集中できる時間を手に入れたことは、
娘の未来の大切な支えになると、私は信じている。

この先、もし習字を続ける日があっても、
やめたいと言う日が来ても、
どちらでもいい。

あの静かな時間を知ったこと。
それが娘にとっての宝物だから。

やめてもいい、続けてもいい|親の役割は「選ばせる」こと

もし、娘が「習字を辞めたい」と言ったら。
私はきっと、静かにこう答えると思う。

「辞めたいなら、辞めたらいいよ。」

続けることだけが正解ではない。
苦しいまま続けて、心のどこかに小さな傷を残してしまうくらいなら、
いったん手を離してもいい。
今はまだ、自分の「好き」を探す旅の途中なのだから。

私は、娘に何かひとつのことを極めてほしいと思っているわけではない。
周りと競争してほしいとも思っていない。
ただ、いろいろな世界に触れてみて、
心がふっと動く瞬間に出会ってほしいと願っている。

習字は、その第一歩だったのかもしれない。
筆の重さ、墨の香り、静かな空気。
娘はその場所で、自分のペースで進める心地よさを知った。
そして、ひとつのことに集中できるようになった。
それは、結果よりもずっと価値のある経験だと思っている。

だから、たとえ辞める日が来ても、後悔はしない。
「やめる」ことは敗北ではなく、新しい選択をする力。
大人になればなるほど難しくなる、“方向転換する勇気”だって育つ。

ひとつの習い事に縛られる必要はない。
子どもの時間は、可能性であふれている。
道を変えてもいい。立ち止まってもいい。
たとえ歩幅が小さくても、自分で決めて進むなら、それがいちばん強い。

親にできるのは、背中を押しつけることではない。
ただ、いつでも選び直せる場所であり続けること。
迷ったときにそっと灯す、小さな明かりでいること。

続けたいなら、全力で応援する。
辞めたいなら、笑って手を振る。

どんな未来を選んでも、
娘が自分を好きでいられるように。

そのための時間なら、
いくらだって使っていい。

得意を増やすより、好きがひとつあることの尊さ

習字を続けていく中で、私の心に深く残っている瞬間がある。
それは、教室から帰ってきた娘が、
「今日、うまく書けたよ!」
そう言って、作品を胸の前にそっと差し出してくれた日のこと。

少し照れたように、でも確かな自信を宿した笑顔。
あの表情を見たとき、私ははっきりと気づいた。

この子は、習字が“得意”になったのではなく、“好き”になれたんだ。

子どもにとって、好きがひとつあるということは、
生きていくうえでの大きな拠りどころになる。
うまくいかない日があっても、またやってみようと思える力。
その小さな積み重ねが、やがて自信に変わっていく。

世の中には、得意なことを増やすことを重視する空気がある。
習い事は「上達しているかどうか」「成果が見えるかどうか」で判断されがちだ。
けれど、私は思う。

得意じゃなくてもいい。
上手じゃなくてもいい。
その時間に、心が動くかどうかが大切だと。

娘は、習字を通して自分の世界にゆっくり沈み込む時間を手に入れた。
筆を動かすたび、墨の香りが静かに立ち昇り、
集中の波が心の中にそっと広がっていく。
その静かな世界を、娘は「好き」で満たしている。

作品を見せるときの、控えめだけど誇らしげな笑顔。
その一瞬に宿る光は、
誰かの評価でもなく、順位でもなく、
“自分でできた”と思えた心の実感だ。

大人になったとき、困難にぶつかる日がきっと来る。
思うようにいかないことや、迷う時間もあるだろう。
そんなとき、自分を支えてくれるのは、
胸の奥にそっとしまってある「好き」の記憶なのかもしれない。

習字が、そのひとつになってくれたら嬉しい。
もし、途中で手を離す日がきても、何も失われない。
好きだった時間は、確かにその子の中に残り続けるから。

得意を増やすより、好きがひとつあること。
その尊さを、娘が教えてくれた。

40代の母として気づいた、“心の余白”のつくり方

娘が習字を続けていくのを見守るうちに、
私自身の心にも、ひとつの変化が生まれた。

以前の私は、どこかで焦っていたのだと思う。
「みんなはこんなことができる」
「同じ学年の子なのに、どうしてうちは…」
気づけばまわりと比べては胸をざわつかせ、
見えない競争に巻き込まれていた。

でも、娘が静かに筆を走らせる背中を見ているうちに、
ふっと肩の力が抜ける瞬間があった。

娘は娘のペースでいい。
早くできなくてもいい。
すぐに結果が出なくてもいい。
目の前の世界をひとつずつ味わいながら進んでいけるなら、
それが一番の成長なんだと、
ようやく心の底から思えるようになった。

走るのが得意な子もいれば、
踊るのが好きな子、
声を出して笑うのが上手な子、
静かに集中することを愛する子がいる。

どれが優れていて、どれが劣っているなんて、
本当は最初から存在しない。
ただ、それぞれに流れるリズムがあるだけだ。

娘は、ゆっくりと確かに進むタイプだ。
一歩の幅が小さくても、
その一歩にちゃんと意味がある。
その歩幅をせかしたり、引きずったり、
他の子のスピードに無理に合わせる必要はない。

そう思えたとき、
私の中に心の余白が生まれた。

比べる気持ちが少しずつ薄らいで、
「今日、うまく書けたよ」と笑う娘の声を
まっすぐに受け止められるようになった。
結果や評価じゃなくて、
その日の小さな喜びや成長を
ちゃんと見つめる目になれた気がする。

40代になって、ようやく理解できたこと。
子どもの成長は、親の思いどおりに進まない。
でもそれは、悪いことなんかじゃない。
親が思うより、子どもはずっと強い。
自分のペースを、自分の足で選び取っていく力を
ちゃんと持っている。

だから私はこれからも、
背中を押しすぎないように、
手を離すタイミングを間違えないように、
そばで静かに見守っていたい。

娘が娘の速度で進んでいく道を、
信じて待つことができる母でありたい。

私は、娘の習字を見守る中で、
習いごとに対する考え方が変わっていった気がする。

習いごとって、本来は
「得意を増やすため」でも「結果を出すため」でもなく、
自分の心がふっと動く瞬間に出会うための時間
なんじゃないかと。

もし苦しくなったら、
無理に続けなくてもいい。
やめたからといって、何かを失うわけじゃない。

むしろ、そこからまた次の出会いが始まる。
好きなことを探す旅は、いつだって途中だ。

比べて焦るより、
ひとつのことに静かに向き合う“その子のペース”を信じるほうが、
ずっと大切なんだと、娘が気づかせてくれた。

習字が上手く書けた日、
うれしそうに作品を見せてくれる笑顔を見るたびに思う。

得意じゃなくてもいい。
好きな気持ちが、未来の力になる。

そう信じられるようになっただけで、
この時間には意味がある。

今日も小さな養生を。



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Wrote this article この記事を書いた人

ミカ

手帳と暮らすミカです。 薬剤師・和漢薬膳師として、心と体の「めぐり」を見つめながら暮らしています。 40代を迎え、心や体の声に耳を澄ます日々。 手帳を開く時間は、私にとって小さな養生であり、静かな儀式です。 ここでは、ほぼ日手帳に綴る日々の出来事や心の揺れを通して、 「人間らしく生きる」ためのヒントを探しています。

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