
大学生時代、仙台の冬に当たり前のようにあった光のページェント
大学生だった頃、私は仙台に住んでいた。
冬が近づくと、街がそわそわし始める。その気配は、天気予報よりも早く、夕方の空気の中に混じっていた。
光のページェントは、当時の私にとって「見に行くイベント」ではなかった。
気づけば始まっていて、気づけば終わっている、そんな存在だった。
講義を終えて駅へ向かう途中、アルバイトの帰り道、友人と何気なく歩く夜。
特別な予定を立てなくても、定禅寺通りを通れば、自然と光の中に入り込んでいた。
イルミネーションの下で立ち止まり、写真を撮る観光客の横を、私たちはコートのポケットに手を突っ込んだまま通り過ぎる。
「今年も始まったね」と誰かが言って、「寒いね」と返す。
それだけの会話で、冬が来たことを受け入れていた。
仙台の冬は、思っているよりも冷える。
風が強く、体の芯まで冷たさが入り込んでくる。
でも、その寒さがあったからこそ、光のあたたかさが際立っていたように思う。
白い息を吐きながら見上げたケヤキ並木の灯りは、今も記憶の奥で静かに瞬いている。
最近は、もう何年も仙台を訪れていない。
光のページェントが始まる時期になると、写真やニュースで様子を知るだけだ。
それでも、あの光景は色あせない。
場所も、音も、匂いも、きちんと身体の中に残っている。
観光として訪れる光のページェントと、生活の一部だった頃のそれは、きっと少し違う。
学生だった私は、時間もお金も限られていて、豪華な食事をする余裕もなかった。
だからこそ、あの夜の過ごし方は、背伸びをしない、身の丈の冬だった。
あの頃の私は、まさか何年も経ってから、
「また絶対に訪れたい冬の景色」になるとは思っていなかった。
当たり前だったものは、いつの間にか、心の中で大切にしまわれる記憶になる。
そして、その記憶の中には、
光と一緒に、冷えた指先と、あたたかい食べものの気配が、ちゃんと残っている。
寒い夜、ページェントを歩きながら食べるという選択
光のページェントを見ていると、体はじっとしていられない。
きれいだな、と思いながらも、足先から冷えが忍び寄ってきて、自然と歩く速度が少しずつ速くなる。
立ち止まって見上げる時間と、早く暖かい場所へ行きたい気持ち。その間を行き来するのが、仙台の冬の夜だった。
学生だった私にとって、ページェントの夜は「どこかのお店に入ってゆっくり食事をする日」ではなかった。
お財布の中身も、時間も、余裕があったわけではない。
だから、選ぶのはいつも、歩きながら食べられるものだった。
寒さでかじかんだ指先。
手袋を外す一瞬の冷たさ。
それでも、紙袋や包みを受け取ると、手のひらにじんわりと伝わってくる温度があった。
そのぬくもりだけで、「今日はこれでいい」と思えた。
光の下で食べる、という行為は、今思えばとても不思議だ。
レストランのテーブルも、落ち着いた照明もない。
あるのは、きらきらと揺れる光と、行き交う人の気配と、吐く息の白さだけ。
それでも、あの夜に食べたものは、なぜかよく覚えている。
寒いからこそ、味がはっきりと残る。
立ち止まらずに歩きながら食べるから、余計なことを考えなくて済む。
ただ、「温かい」「おいしい」と感じる、その感覚だけが、体の中にすっと入ってくる。
光のページェントの夜に、食べ歩きを選ぶのは、贅沢をしない代わりに、冬とちゃんと向き合うということだったのかもしれない。
寒さも、人混みも、すべて含めて、その夜の一部として受け取る。
そうやって過ごした時間は、写真よりも、ずっと深く記憶に残る。
今なら、もっと暖かい店を探したり、事前に予約をしたりするだろう。
でも、あの頃の私は、そうしなかった。
できなかった、というより、必要なかったのだと思う。
歩きながら食べることは、若かった私なりの、ページェントとの付き合い方だった。
そして、その記憶の延長線上に、自然と浮かび上がってくる味がある。
笹かまぼこのひょうたん揚げは、仙台の冬を思い出す味だった
光のページェントの夜、自然と足が向いていたのが、仙台のアーケードだった。
定禅寺通りの冷たい空気から一歩入ると、風が遮られて、少しだけ肩の力が抜ける。
学生だった私にとって、あのアーケードは、冬の逃げ場のような場所でもあった。
そこでよく目にしていたのが、笹かまぼこのひょうたん揚げだった。
串に刺さった、あの独特の形。
名前を聞くだけで、仙台の空気が一緒によみがえるような食べものだ。
正直に言えば、最初から特別な味だと思っていたわけではない。
「仙台っぽいから」「小腹が空いたから」
それくらいの理由で手に取ったのが始まりだったと思う。
でも、一口かじると、外側の衣の香ばしさの奥から、笹かまぼこのやさしい味が広がる。
揚げものなのに重すぎず、魚の旨みがちゃんと残っているところが、不思議と心地よかった。
何より、あれは冬にちょうどいい食べものだった。
熱々すぎないのに、確実にあたたかい。
冷えきった指で串を持ち、少しずつかじりながら歩く。
それだけで、体の中に温度が戻ってくる感覚があった。
豪華な食事ではない。
おしゃれでもない。
でも、学生の私には、それがちょうどよかった。
お財布にも、気持ちにも、無理がない。
「今日はこれで満足できる」
そんな安心感をくれる味だった。
ひょうたん揚げを食べながら、アーケードを抜けて、また光の中へ戻る。
ページェントの灯りと、揚げものの香りが、自然につながっていたあの夜。
今思えば、あれは観光でも、イベントでもなく、ただの生活の一部だった。
最近は仙台に行けていない。
ひょうたん揚げを最後に食べたのがいつだったのかも、正確には思い出せない。
それでも、「仙台の冬の味」と聞いて、真っ先に浮かぶのは、あの串だ。
きっと次に光のページェントを見に行くときも、私は同じようにアーケードを歩き、
同じように、あの形を探してしまうのだと思う。
味そのもの以上に、あの夜の空気ごと、思い出してしまうから。
笹かまぼこのひょうたん揚げは、
仙台の冬を「食べた記憶」として、今も私の中に残っている。
「また行きたい」と思わせるのは、味よりも空気かもしれない
ひょうたん揚げの味を、細かく説明しようとすると、少し言葉に詰まる。
おいしい。確かにおいしい。
でも、それだけでは足りない気がする。
思い出すのは、味そのものよりも、その場に流れていた空気だ。
アーケードを歩く人の多さ。
コートの擦れる音。
紙袋を持つ手の感触。
揚げものの匂いと、外に出た瞬間に感じる、また一段冷たい夜の空気。
光のページェントの夜は、街全体が少し浮き足立っている。
でも、どこか落ち着いてもいる。
騒がしすぎず、静かすぎず、ただ「冬の夜だな」と思わせる、ちょうどいい温度がある。
学生だった私は、その空気の中を歩きながら、特別なことは何も考えていなかった。
将来のことも、今の自分の立ち位置も、深くは意識していなかったと思う。
寒いから歩いて、空いたから食べて、光を見上げていただけ。
それなのに、何年も経った今になって、その夜を思い出す。
「また行きたい」と、ふとした拍子に思う。
それはきっと、あの時間が、無理をしていなかったからだ。
観光名所を回ろうとか、
映える写真を撮ろうとか、
そういう目的は一切なかった。
ただ、その場所にいて、その夜を過ごしただけ。
その自然さが、記憶をやさしく長持ちさせているのかもしれない。
味は、きっかけ。
でも、心に残るのは、空気ごと受け取った体験なのだと思う。
いつかまた歩くために、記憶の中のページェントを残しておく
最近は、旅の計画を立てるとき、少しだけ立ち止まるようになった。
寒さにどれくらい耐えられるか。
人混みは無理をしなくていいか。
若い頃のように、勢いだけで動けなくなった自分がいる。
それでも、仙台の光のページェントだけは、
「もういいかな」と思わない。
今すぐ行けなくても、
いつか必ず、また歩きたい夜として、心の中に残っている。
大学生だった頃の私は、
特別な準備もせず、
特別な理由も持たず、
ただ冬の街を歩いていただけだった。
ひょうたん揚げを片手に、
アーケードを抜け、
また光の中へ戻っていく。
あの動線ごと、あの寒さごと、
私の中には、ちゃんと残っている。
行けていない時間があるから、
思い出は、薄れるどころか、
むしろ輪郭を持って浮かび上がることがある。
また訪れる日が来たら、
同じ場所で立ち止まり、
同じように、あたたかいものを探すだろう。
でも、きっと、少しだけ歩く速度は違っている。
無理をしないで、
味も、光も、空気も、
その夜の分だけ受け取る。
そうやって歩くために、
今は、記憶の中のページェントを、
そっと残しておく。
今日も小さな養生を。

Wrote this article この記事を書いた人
ミカ
手帳と暮らすミカです。 薬剤師・和漢薬膳師として、心と体の「めぐり」を見つめながら暮らしています。 40代を迎え、心や体の声に耳を澄ます日々。 手帳を開く時間は、私にとって小さな養生であり、静かな儀式です。 ここでは、ほぼ日手帳に綴る日々の出来事や心の揺れを通して、 「人間らしく生きる」ためのヒントを探しています。