久しぶりに会った社長と同僚。嬉しいのに、胸がざわつく理由
社長と同僚が、わざわざ私の住む地域まで来てくれる──
その知らせを聞いたとき、胸の奥がふっと温かくなった。
「久しぶりに会えるんだ」
そう思うと、やっぱり嬉しかった。
でもその嬉しさのすぐ隣に、
もうひとつ別の気持ちが静かに座っていた。
それは“複雑さ”だった。
だって、私の心はもう会社の未来と同じ方向を向けなくなっていたから。
当日、実際に顔を合わせると、
久しぶりの空気に少し緊張しつつも、
思った以上にワイワイと話せた。
昔みたいに、笑って、冗談も交えて、
「この感じ、懐かしいな」と一瞬思ったくらいだった。
でも、その明るさの奥にある“社長の意図”は、
なんとなくわかってしまっていた。
社長はきっと、
私の“本音”を聞きたかったのだと思う。
これからどんな仕事をやっていきたいのか、
どんなキャリアを描きたいのか、
そういう“前向きな未来の話”。
でも私が胸の内側で握りしめている本音は、
その方向とはまったく違っていた。
もっと静かで、痛みを含んでいて、
そっとしておきたい種類の本音──
「もう辞めたいと思っている」という気持ち。
社長が求めている“本音”と、
私が抱えている“本音”。
その温度差は、言葉にしなくても伝わってきて、
だからこそ、何も言えなかった。
嬉しいのに、ざわついてしまった理由。
それは、もう同じ景色を見ていないという事実が、
自分でもわかってしまっていたからだ。
お店が定休日で予定変更。小さな“ずれ”に心が反応した
本当は、連れていきたかったお店があった。
私がいつも通っているお蕎麦屋さんで、
落ち着いた雰囲気で、味も間違いなく美味しくて、
「ここなら絶対に外さない」と自信を持って言える場所。
久しぶりに会う社長と同僚に、
あのお蕎麦の香りや、つるんとした喉ごしを味わってほしかった。
だから、そのお店の前まで歩いたときは少しワクワクしていた。
けれど──
暖簾のない店先を見た瞬間、時間がふっと止まったような気がした。
まさかの定休日。
思い描いていた流れが、静かに崩れていく。
その「定休日」という小さな出来事が、
胸のどこかにひっそりとしこりのように残った。
表向きは「仕方ないですね」と笑いながら言ったけれど、
本当は、社長にも同僚にも食べてほしかった。
一緒に“私のおすすめ”を共有したかった。
その気持ちが、ふっと行き場をなくしたからだ。
でも、止まっていても仕方ない。
すぐに頭を切り替えて、次の候補を考えた。
そこで浮かんだのが、
これまた私がよく通っている珍しいラーメン屋さん。
「ここも私の好きなお店だし、きっと楽しんでもらえるはず」
そう思って私から提案し、そのまま自然に向かうことになった。
予定変更の瞬間に、
“合わせるスイッチ” が入ったわけじゃない。
ただ、いつものように、
空気を読んで、場を滑らかに進めただけ。
気を張ったわけでもなく、
特別な判断をしたわけでもなく、
ただ、自然にそうしていた。
だけど、ふと気づく。
ほんの少しだけ、胸の奥がきゅっとしていた。
「連れていきたかった場所に連れていけなかった」という、
小さな後悔みたいなものが、
重くはないのに、確かにそこにある。
そして、そのほんのわずかな“ずれ”が、
この日の心の流れを静かに象徴しているような気がした。
みんなで食べたラーメンは美味しい。でも会話の温度が少し遠い
向かったのは、私がよく通っている珍しいラーメン屋さん。
ひもかわのように幅広で、ワンタンにも似たつるりとした麺が特徴の店だ。
どこか優しくて、でも少しクセになる味わい。
私が気に入っている理由も、その独特の食感にあった。
社長も同僚も興味深そうにメニューを眺め、
運ばれてきた丼を覗き込む表情が少し新鮮だった。
湯気の向こうで、それぞれが「美味しい」と言ってくれる。
その言葉を聞くと、胸の奥がほっと緩んだ。
食べている間の空気は、いつものオンライン会議の延長みたいだった。
雑談が中心で、特別に仕事の話をしているわけでもない。
オンライン越しでいつも話している二人と、
同じように、笑って、頷いて、他愛のないやり取りが続く。
私はその時間を確かに楽しんでいた。
毎日オンラインで会話はしているから、
特別新しい話題があるわけではないけれど、
画面の向こうではなく、同じテーブルを囲んで話すだけで、
なんとなく距離が縮まったような気もした。
だけどその一方で、
心のどこかに、薄い膜のような“壁”があるのを感じてもいた。
それは、相手が作っている壁ではない。
きっと私自身がつくっている壁だ。
辞めたい気持ちを胸に抱えたまま、
今と同じトーンで笑うことに、
どこかで無理をしている部分があるのかもしれない。
「この感じ、前と少し違うな」
ふとそんな思いが頭をよぎった。
以前は、ただただ目の前の時間を楽しんでいた。
でも今日は、心の奥に沈めた本音が、
静かにテーブルの下で重さを持っていた。
雑談は楽しい。
食事も美味しい。
笑顔も自然に出る。
それでも、どこかで自分が距離を取っている。
そんな不思議な二重構造みたいな心地が、
ひもかわ麺のやわらかい食感とは対照的に、
少しだけ胸に残っていた。
カフェで未来の話をしたとき、本当は「やめたい」と言えなかった
ラーメンを食べ終えたあと、私たちは少し歩いて、近くのカフェに入った。
昔の蔵をリノベーションした、こじんまりとした空間。
木の香りがふわっと漂って、外の寒さとは違う、どこか柔らかい温度が満ちていた。
静かで、落ち着いていて、誰かと“大事な話”をするにはちょうどいい場所だった。
席につくと、社長はカップを両手で包みながら、ゆっくりと私の方を向いた。
そこで始まったのは、これからの話だった。
「これから、どんなことをやっていきたい?」
「今後、キャリアを、どう広げていきたい?」
そんな未来を描くための言葉たち。
社長の声は優しくて、真剣で、まっすぐで。
期待も信頼も感じられて、
「私をちゃんと必要としてくれている」
その気持ちは確かに受け取れた。
だけど──
胸の奥は、静かに沈んでいった。
社長の語る“未来”と、私が見つめている“未来”は、もう重なっていなかったからだ。
会社が目指している場所と、
私が向かいたい場所は、
いつの間にか別の道になっていた。
その分かれ道を、私はもう知っていた。
本当はその瞬間、
「もう辞めたいんです」と言えばよかったのかもしれない。
カフェの空気は穏やかで、
社長の問いかけも前向きで、
きっと言葉さえ出れば、ちゃんと受け止めてくれたかもしれない。
でも、私は言えなかった。
あの場の空気は、
“これから一緒に作る未来”を話すためのもので、
“別の未来を選ぶ”という話をするには、あまりにも温かすぎた。
せっかく遠くまで来てくれたのに、
せっかく時間をつくってくれたのに、
この場で「辞めたい」と切り出すなんて、
裏切ってしまうような気がした。
社長の期待と、私の沈黙。
見えている景色が違うからこそ、
言葉が喉の奥で固まって、動かなかった。
“未来をどうしたいか”と聞かれても、
今の私は、未来が見えない。
見えるのは、ぼんやりとした違和感だけ。
だから私は、曖昧に笑ったまま、何も言えなかった。
その笑顔が、自分でも少し痛かった。
言えなかった本音が、静かに私の背中を押している
カフェを出て、社長と同僚と駅へ向かって歩いた。
夕方の空は冬の色をしていて、街の音もどこか控えめで、
その静けさが、胸の中のモヤモヤをゆっくり浮かび上がらせていく。
「言えなかったな……」
帰り道で最初に浮かんだのは、そんな言葉だった。
後悔というほど強いわけではないけれど、
喉の奥に引っかかったままの“本音”が、
じんわりと重さを残していた。
社長と同僚と別れ、ひとりになった瞬間、
ふっと肩の力が抜けた。
そのとき、心の奥から出てきた一番正直な気持ちは
「疲れた……」
だった。
楽しくなかったわけじゃない。
笑ったし、会えて嬉しかったし、
一緒に食べたご飯も美味しかった。
でも、心の中に二つの感情が同時に存在して、
そのどちらにも嘘をつけなくて、
その“葛藤”に体が静かに疲れていた。
私は辞めたいと思っている。
それは揺らぎのない事実だ。
だけど、その一方で、
5年間一緒に働いてきた仲間への情も、
もう一度みんなで何かをつくっていけたらという淡い期待も、
たしかにまだ胸のどこかに残っている。
本音が言えなかったのは、
その期待を、完全には捨てきれていないからなのかもしれない。
そして今の私は、
“辞める・続ける”
そのどちらかを急いで選ばなくてもいいのかもしれない、
そんなふうにも思えてきている。
辞めたい気持ちは消えていない。
でもそれは、鋭い痛みではなく、
静かに根を張ったような、
落ち着いた実感に近い。
同時に、
「無理しない程度に働こう」
という、柔らかな選択肢も自分の中に生まれていた。
誰の期待に合わせるでもなく、
誰かの“未来像”に縛られるでもなく、
いまの自分にとっていちばん優しい働き方を、
少しずつ選んでいけばいい。
言えなかった本音は、
私を縛る言葉ではなく、
むしろ、
「そろそろ自分の心に正直になっていいよ」
と静かに背中を押してくれている気がした。
今日も小さな養生を。
