アラフォーになって感じる体調の変化と、心の居場所
ここ最近、
自分の体が、少しずつ変わってきているのを感じる。
朝起きた瞬間に、
「あれ?」と立ち止まることが増えた。
前の日に特別なことをしたわけでもないのに、
体が重い。
眠ったはずなのに、疲れが残っている。
四十を過ぎると、
こうした小さな不調が、説明もなく現れる。
病気というほどではないけれど、
「元気」と胸を張って言える状態でもない。
ほんのり不調が続く毎日。
家事は待ってくれないし、
仕事も子どもも、
いつも通りの自分を求めてくる。
だから、多少の不調には目をつぶって、
やり過ごしてしまうことが多い。
でも、
無理を重ねるほど、
心のほうが先に疲れていく。
体を休める方法は、
検索すればいくらでも出てくる。
食事、運動、睡眠。
どれも大切だとわかっている。
それでも、
今の私に一番足りていなかったのは、
「心が戻ってくる場所」だったのかもしれない。
誰かの役割を一旦降りて、
成果も効率も考えず、
ただ自分の気持ちが動くものに触れる時間。
それは、
積極的に何かを頑張ることではなく、
静かに自分を取り戻すような感覚だった。
アラフォーになってからの不調は、
「衰え」ではなく、
生き方を調整する合図なのかもしれない。
これまでと同じペースでは走れませんよ、
という体からのサイン。
だからこそ、
体調を整えることと同じくらい、
心の居場所を持つことが大切になってくる。
この先、
私が救われていくことになる「推し活」は、
そんなふうにして、
静かに、生活の中へ入り込んできた。
私の推し活は、漫画から始まった
私の推し活は、
いわゆる王道のかたちでは始まらなかった。
ライブに通うわけでもなく、
誰かの写真を集めるわけでもない。
日常の延長線上で、
静かにページをめくるところから始まった。
きっかけは、一冊の漫画だった。
たまらないのは恋なのか。
単行本と電子書籍、どちらでも追いかけている作品だ。
最初は、
「絵が好きだな」
「空気感がいいな」
その程度の軽い気持ちだったと思う。
推し活、という言葉を使うほどの自覚もなかった。
けれど、
新刊の発売日を覚えている自分に気づいた頃から、
少しずつ変わっていった。
予約していたアクスタセットが届いた日。
箱を開けた瞬間、
思わず小さく声が漏れた。
いい大人が、と自分で思いながら、
その高揚感を否定する気にはなれなかった。

電子版でも読んでいるのに、
紙の単行本は二冊。
完全に理性より感情が勝っている。
自分でも笑ってしまうような“大人買い”だった。
それでも、
その「好き」は、
暮らしを乱すどころか、
不思議と私を立て直してくれた。
疲れて帰ってきた日も、
仕事がうまく進まなかった日も、
ページを開けば、
そこに変わらない世界がある。
推し活というと、
特別な情熱や時間が必要なもののように思われがちだけれど、
私にとっては、
日常にそっと置かれた、
静かな支えのような存在だった。
この漫画を好きでいることは、
何かを誇示するためでも、
誰かと比べるためでもない。
ただ、自分の気持ちが自然に向かってしまう先を、
素直に認めているだけだ。
そうやって始まった私の推し活は、
いつの間にか、
生活の中で欠かせない居場所になっていった。
気づいたら沼にいた。推し活が日常に入り込むまで
最初は、本当に軽い気持ちだった。
一話読んで、続きが気になったらまた開く。
それだけの関係だったはずなのに、
いつの間にか、生活の中に小さな変化が生まれていた。
発売日を確認するようになり、
次はいつ更新されるのかを、無意識に覚えている。
「楽しみ」が、予定のひとつとして心に置かれるようになる。
気づいたら、それはもう日常の一部だった。
いわゆる「沼」という言葉は、
どこか危うさや、自制が効かなくなる感じを含んでいる。
だから、少し距離を置いて使いたくなる気持ちもある。
でも、私がハマっていったのは、
生活を壊すような沼ではなかった。
机の上に並べたアクスタを眺めながら、
仕事に向かう前に深呼吸をする。
画面に向かう時間が続いても、
「これが終わったら、あの続きを読もう」と思える。
それだけで、
一日を乗り切るための気力が戻ってくることがあった。
推し活が日常に入り込む、というのは、
生活が派手になることではない。
むしろ、淡々とした毎日の中に、
小さな色が差し込まれる感覚に近い。
疲れ切ってしまう前に、
心が立ち止まれる場所がある。
それは、とてもささやかなことだけれど、
続いていく暮らしの中では、確かな支えになる。
いつからか、
「沼にハマってしまった」という言葉よりも、
「ここに戻ってきている」という感覚のほうが、
しっくりくるようになった。
推し活は、
現実から逃げるためのものではなく、
現実を続けるための足場だったのだと思う。
大人買いは無駄じゃなかった。心が回復する感覚
正直に言うと、
最初は少し迷いもあった。
電子版でも読んでいるのに、
紙の単行本を二冊。
アクスタまで揃えている自分を見て、
「やりすぎじゃない?」と、
頭のどこかでブレーキをかけようとした。
家計のこともあるし、
必要不可欠な出費ではない。
大人になればなるほど、
「本当に必要?」という問いが先に立つ。
それでも、
実際に手元に届いたときの高揚感は、
思っていた以上に大きかった。
箱を開けた瞬間、
胸の奥がふっと軽くなる。
理由ははっきりしないけれど、
「ああ、好きだな」と思えた。
その感覚は、
一時的な興奮というよりも、
静かな回復に近かった。
忙しい毎日の中で、
気づかないうちに削れていたものが、
少しずつ戻ってくるような感じ。
心の奥に、
温度が戻る感覚。
「無駄遣いだったかな」と思うより、
「これは今の私に必要だった」と、
素直に認めたほうがしっくりきた。
推し活に使ったお金は、
何かを誇るためでも、
誰かに見せるためでもない。
自分が自分でい続けるための、
小さな投資だったのだと思う。
とくに、
たまらないのは恋なのか
のように、
静かに寄り添ってくれる作品は、
消費される娯楽ではなく、
心を回復させる存在になっていた。
大人買いは、
贅沢でも、逃げでもなかった。
疲れ切る前に、
自分を立て直すための選択。
そう思えたとき、
少しだけ、
自分に優しくなれた気がした。
手帳に残す推し活。好きな気持ちを可視化する養生
推し活の中でも、
私にとっていちばん大切なのは、
「手帳に残す」という行為かもしれない。
ほぼ日手帳を開いて、
その日の出来事を書く。
仕事のこと、家族のこと、
体調の小さなメモ。
そこに、推しの存在が自然に入り込んでくる。
新刊を読んだ日。
アクスタが届いた日。
「今日はこれが楽しみだった」という気持ち。
それらを言葉や写真、ステッカーで残すだけで、
ページの空気が変わる。
推し活は、
心の中だけで完結させることもできる。
でも、こうして手帳に書き留めることで、
「私は今、これが好きなんだ」と
自分自身に確認しているような感覚が生まれる。
とくに、
たまらないのは恋なのか
のように、
連載中で、いまも進行形で好きな作品は、
その時々の気持ちを残すのに向いている。
読み進めて感じたこと。
続きを待つ間の、静かな高揚。
ページを閉じたあとも残っている余韻。
それらを、
「その日の私」の記録として手帳に挟んでおく。
ネップリした一枚を貼ることもあるし、
何も書かずに、ただ眺める日もある。
予定をこなすための手帳ではなく、
気持ちを整えるための場所。
体調や気分が揺らぎやすくなるアラフォー世代にとって、
こうした“好きの記録”は、
思っている以上に効いてくる。
頑張れなかった日も、
うまくいかなかった日も、
手帳をめくれば、
「それでも好きなものがあった日」が確かに残っている。
それは、
自分を否定しないための証拠であり、
明日につなぐための小さな養生だと思う。
推し活は、
派手なものじゃなくていい。
誰かと比べなくていい。
自分の手帳の中で、
静かに息をしていれば、それでいい。
好きなものを、
好きなかたちで残す。
その積み重ねが、
私の心を、少しずつ整えてくれている。
推し活は、アラフォー主婦の心を整える習慣だった
アラフォーになって感じる不調や揺らぎは、
気合や根性で乗り切れるものではなくなってきた。
だからこそ、
無理に前向きになろうとしないこと。
「頑張れない自分」を否定しないこと。
そのための居場所を、
暮らしの中に用意しておくことが大切だと感じている。
私にとっての推し活は、
現実から逃げるためのものではなかった。
むしろ、
現実を続けていくための足場だった。
漫画を読むこと。
好きな場面を残すこと。
手帳に挟んで、
何も書かずに眺める時間を持つこと。
それらはどれも、
誰かに評価されるための行動ではない。
ただ、自分の呼吸を整えるための習慣だ。
「沼にハマる」という言葉には、
少し後ろめたい響きがあるけれど、
この沼は、私を壊すものではなかった。
むしろ、
心の潤いと、
明日を生きる力をくれる場所だった。
アラフォー主婦が推し活をすることは、
決して特別なことではない。
忙しい毎日の中で、
自分を取り戻すための、
ひとつの方法なのだと思う。
もし、
日々の暮らしの中で、
心が少し乾いていると感じることがあれば、
好きなものを、好きなかたちで抱えてみてほしい。
それは、
とても小さなことかもしれないけれど、
確かな養生になる。
今日も小さな養生を。
