
WordPressのアクセスが少ない時期に、気持ちが揺らぐ理由
アクセス数が静かになる時期がある。
毎日ゼロではないけれど、増えもしない。
数字が止まったままの画面を眺めていると、
自分の書いている場所が、少しずつ世界から遠ざかっていくような感覚になる。
書けなくなったわけじゃない。
手帳には相変わらず言葉が溜まっているし、
書きたいことも、考えたいことも、ちゃんとある。
それなのに、WordPressの管理画面を開くたび、
「これを続けていて、どこへ向かうんだろう」と思ってしまう。
たぶん、迷いが出るのは
書くことそのものよりも、
誰にも見えていないかもしれない時間に耐えているからだ。
SNSのように反応が返ってくるわけでもなく、
ブログサービスのように人の気配が常にあるわけでもない。
アクセスが少ない時期のWordPressは、とても静かだ。
静かすぎて、時々、自分の足音だけが大きく響く。
それでも不思議と、
「やめよう」とは思わない。
迷ってはいるのに、閉じる決断はできない。
それはきっと、この場所が
評価や正解を急がなくていい場所だと、
どこかでわかっているからだと思う。
AIが文章を量産できる時代になって、
効率よく、わかりやすく、正解に近い言葉は
簡単に手に入るようになった。
だからこそ、
アクセスが少ないこの静かな時間が、
「人が考え続けている場所」として
必要なんじゃないか、という気もしている。
迷っているのは、
進んでいないからじゃない。
この場所で考え続けているからこそ、
立ち止まってしまうだけ。
数字が動かないこの時期に感じる揺らぎは、
たぶん、
書くことをやめたくない自分が、
ちゃんとここにいる証拠なんだと思う。
アメブロやはてなに登録しては、やめてしまうジレンマ
WordPressの静けさに耐えられなくなると、
人の気配がある場所が少し恋しくなる。
アメブロや、はてなブログ。
登録すれば、誰かの記事が流れてきて、
「いいね」やスターが画面に並ぶ。
そこには確かに、人がいる感じがする。
最初の数日は、少し安心する。
誰かが書いている。
誰かが読んでいる。
自分も、その流れの中に混ざっている気がする。
ブログを書いているというより、
「場所に参加している」感覚に近い。
でも、その安心は長く続かない。
更新のタイミングや、
他の人の記事を読まなきゃいけない気がする空気。
交流しないと失礼なんじゃないか、
反応しないと存在していないみたいになるんじゃないか、
そんな考えが、じわじわと心を締めつけてくる。
馴れ合いたいわけじゃない。
誰かとつながりたい気持ちがゼロなわけでもない。
ただ、そこにいるための“作法”が、
今の自分には少し重たい。
気づくと、
書くことよりも、
居心地のよさを保つことに気を遣っている。
何を書いたかより、
どう見られたかを気にしている。
その違和感が積もって、
結局、そっと退会してしまう。
何度も同じことを繰り返しているのに、
また登録してしまうのは、
人の気配を完全には手放せないからだと思う。
ひとりで書きたい。
でも、誰もいない場所で書き続けるのは、
ときどき不安になる。
この行き来そのものが、
今の自分の迷いなんだと思う。
開かれすぎた場所と、
閉じすぎた場所のあいだで、
ちょうどいい距離を探し続けている。
馴れ合いたいわけじゃない。でも、誰かに見てほしい
誰かと頻繁にやり取りをしたいわけじゃない。
コメント欄で言葉を交わしたり、
お互いの記事を読み合って関係を深めたり、
そういう距離感を求めているわけでもない。
それなのに、
「誰にも見られていないかもしれない」と思うと、
胸の奥が少しだけざわつく。
この矛盾した気持ちが、自分でも不思議だった。
たぶん欲しいのは、反応じゃない。
評価でも、共感の言葉でもない。
ただ、
「ここに書いた言葉が、どこかに触れたかもしれない」
その可能性だけでいい。
誰かが検索して、
たまたま辿り着いて、
静かに読んで、
何も残さずに去っていく。
そんな関係性でも、
人とつながっていないわけじゃない気がする。
AIが文章を整え、
正解を素早く提示してくれる時代だからこそ、
人が時間をかけて考えた言葉は、
そっと置かれているだけで意味を持つ。
声を上げなくても、
存在していい場所があってもいい。
誰かに見てほしい、という気持ちは、
承認欲求と呼ばれがちだけれど、
本当はもっと静かなものだと思う。
確認したいのは、
「私はここにいていいか」
その一点だけ。
馴れ合わなくていい。
近づきすぎなくていい。
それでも、
どこかで誰かと同じ時間を共有している。
そんな感覚を、
私はまだ手放せずにいる。
こっそり誰かが来てくれる距離感が、いちばん落ち着く
人の気配が欲しいのに、
近すぎると息が詰まる。
この感覚を、うまく説明できずにいたけれど、
「足跡」という言葉がいちばん近い気がする。
誰かが来たことはわかる。
でも、名前は知らない。
声も残らない。
ただ、そこに一瞬、別の呼吸が重なったことだけが伝わってくる。
そのくらいの距離が、いちばん落ち着く。
通知も、コメントもなくていい。
ランキングに乗らなくてもいい。
更新を催促されることもない。
ただ、ページの向こう側で、
誰かが立ち止まって、
少し読んで、
静かに去っていく。
WordPressのアクセス解析に残る、
数字にならない気配。
一気に増えなくても、
ゆっくりと続いている線を見て、
「誰かが通った道なんだ」と思えるだけで、
気持ちは少し整う。
受け身なんだと思う。
自分から迎えに行くより、
ここに置いておく。
来るかどうかは、相手に委ねる。
その代わり、
来た人を無理に引き止めない。
AIが最適解を提示し、
アルゴリズムが流れをつくる時代に、
この不確かな気配は、とても非効率だ。
でも、人が残す足音は、
効率では測れない。
誰かが来てくれた“息吹”を、
そっと感じられる場所。
声は交わさなくても、
確かに同じ時間を共有している。
そんな距離感が、
今の自分には、いちばんしっくりきている。
たぶん、この距離感が「個人サイト」なんだと思う
まだ、はっきり決めたわけじゃない。
この先どうするかも、
ブログをどんな形にするかも、
この時点では曖昧なままだ。
でも、考えているうちに、
何度も同じ場所に思考が戻ってくる。
それが、個人サイトという言葉だった。
発信するための場所、というより、
置いておくための場所。
誰かに届けに行くのではなく、
誰かがたまたま見つけるかもしれない場所。
更新頻度も、文章の長さも、
正解を決めなくていい空間。
AIが文章を整え、
必要な情報を即座に差し出してくれる時代に、
人が迷いながら書いた言葉は、
どうしても不格好になる。
結論が出ていなかったり、
同じところを行ったり来たりしていたり、
読む人に何かを与えられないかもしれない。
それでも、
その不完全さごと残せる場所が、
今の自分には必要な気がしている。
個人サイトは、
交流を目的にしなくてもいい。
役に立たなくてもいい。
たくさん読まれなくても、
静かに存在していていい。
その前提があるだけで、
書くときの呼吸が深くなる。
受け身でいい。
迎えに行かなくていい。
それでも、誰かが通り過ぎた気配を、
足跡のように感じられる。
その距離感が、
今のAI時代には、むしろ合っているのかもしれない。
私はまだ、
「戻る」と決めたわけじゃない。
ただ、
戻りたい気がする、という感覚を
正直に認めただけだ。
答えは年明けに出せばいい。
今は、
迷っている時間そのものを、
ここに残しておこうと思う。
今日も小さな養生を。

Wrote this article この記事を書いた人
ミカ
手帳と暮らすミカです。 薬剤師・和漢薬膳師として、心と体の「めぐり」を見つめながら暮らしています。 40代を迎え、心や体の声に耳を澄ます日々。 手帳を開く時間は、私にとって小さな養生であり、静かな儀式です。 ここでは、ほぼ日手帳に綴る日々の出来事や心の揺れを通して、 「人間らしく生きる」ためのヒントを探しています。