「昔と同じように」はもう無理。PTAと働く母の現実

「昔と同じように」はもう無理。PTAと働く母の現実

朝の忙しさの中で立ち止まったPTAの話

朝の空気がまだ冷たくて、
子どもの支度に追われながら家を出た日。

学校で先生に声をかけられた。

「PTAの活動って、どう思いますか?」

その瞬間、胸の奥からふわっと立ち上がったのは、
怒りでも疲れでもなくて、
“ああ、この話題…誰かと共有したかったんだ”
という小さな安堵だった。

先生は、お子さんがすでに大きい方。
PTAの経験を一通り終えた立場だからこそ、
今の私たちの状況に寄り添ってくれた。

「いまは共働きの家庭がほとんどですもんね。
朝の時間に学校へ来るのって、本当に難しいと思います。
仕事を休んだり、遅刻したり…負担が大きすぎますよね。」

その言葉に、胸の中の固まっていたものが
すっと溶けていくようだった。

そう、わかってほしかったのはまさにそこ。

昔は“母親が家にいる”ことが前提で作られた制度。
誰も疑わずに続けてきたその形が、
現代の暮らしとまったく噛み合わなくなっている。

朝はぎゅうぎゅうに詰まった時間で、
夕方の会議にも間に合わないことが多い。
そんな現実を抱えながら、
「全員参加が当たり前」という空気だけが残っている。

忙しい朝にふと立ち止まったとき、
私が感じたのは“PTAが悪い”ではなく、

──時代が変わっているのに、仕組みが置き去りのまま。
そんな“古い温度”だけが続いている窮屈さだった。

「昔と同じように」が通用しない時代に

PTAの“全員参加”という昔ながらの決まり。
それは長いあいだ、疑われずに続いてきたものだと思う。

でも──私はいつも思ってしまう。

「これは、昔の暮らしが土台のままなんじゃないか」 と。

かつては、母親が家にいて、
家庭を支える役割を担うことが“当たり前”とされていた。
だからこそ、平日の朝でも昼でも、
学校に行く時間をつくれたのだろう。

でも今は、そんな前提はどこにもない。

仕事の開始時間は早く、
朝は子どもの準備と自分の支度でぎゅうぎゅう。
夕方に開かれる会議には、
仕事を終えてダッシュしても間に合わないことが多い。

「同じようにやれ」と言われても、
時代がまったく違うのだ。

それなのに、制度だけが昔のまま残っている。
まるで、誰も触れてはいけない“古い習慣”のように。

PTAの活動を通して思うのは、
続けるべきことと、手放していいことの線引きが
ちゃんとアップデートされていないということ。

本当に必要なら、
負担を分け合える形に変えるはずだし。
必要じゃないなら、
もっと簡単な方法に置き換えられるはず。

なのに今のPTAは、
目的が薄く、形だけが残ってしまっている活動がいくつもある。

「これは誰のため?」
「これを続ける意味は?」
そんな問いを投げかけた瞬間、
すぐに答えが出ないものばかり。

昔と同じようにできる人が少ないのに、
“昔と同じように続ける空気”だけが
ずっと温存されているように感じる。

この違和感は、きっと私だけのものじゃない。
働き方も暮らし方も変わった今の時代、
多くの母親が心の片隅で
同じようなひっかかりを抱えているはずだ。

──時代はもう変わっている。
なのに、仕組みだけが
取り残されたまま動き続けている。

その不自然さと、日々の暮らしの中で
折り合いをつけるように過ごしているのだと思う。

いらないもの、続けるもの——わたしたちの選択

手帳に「続けるもの」「変えていくもの」と書いたとき、
私の中で一番しっくりきた基準は、
“今の社会に合っているかどうか”だった。

暮らし方も、働き方も、
家族のあり方も多様になったこの時代。
私たちの子育て世代は、
良くも悪くも“変化の真ん中”に立っている。

だからこそ、昔からの習慣を
そのまま続けることに無理が出てくる。

たとえばPTAの活動。
誰も悪くないのに、
誰もが少しずつ負担を抱えてしまう仕組み。

それを“伝統だから”と残すより、
社会の動きに合わせて
もっと軽やかに変えていけたらいい。

子どものために良いことなら、
続けてもいい。
だけど、“ただ昔からあるから”という理由だけなら、
一度立ち止まって見直してもいい。

続けるべきかどうかの判断は、
もう“慣例”ではなく、
“いまの暮らしにフィットしているか”で決めたい。

子どもの未来を考えればなおさらだ。

私たち親世代が苦労してきた部分を
そのまま次の世代へ渡す必要はないし、
社会が変わっていくなら、
仕組みも自然と変わっていいはず。

変えたほうが良いことは、
誰か一人が大きな声を上げなくても、
小さな気づきが積み重なったときに
少しずつ動き出すものだと思う。

だから私は、
自分の体力や気力だけでなく、
“今の時代に必要かどうか”を基準にして
物ごとを選んでいきたい。

変わりゆく社会を見ながら、
“これは残したい”“これはもう手放していい”
そんな線引きを、手帳の余白で
そっと考える時間が好きだ。

静かだけれど、
確かに未来につながる感覚があるから。

子どもたちの未来に残したいものは何だろう

PTAのことを考えるとき、
私はつい“未来の子どもたち”の姿を思い浮かべてしまう。

もし、我が子が親になったとき。
同じように仕事と子育てに追われながら、
朝の忙しさに息を整える暇もなく、
PTAのために学校へ向かう姿を想像すると——
胸の奥がそっとざわつく。

「これは、もう残さなくていいんじゃないかな」

そう思ってしまう活動が、確かにある。

たとえば、運動会の準備。
朝30分だけ早く集まれば、
全員であっという間に終わることだってある。

それなのに、
“役割”として残り続けている仕組み。
この日のために何度もある会議。
そこに理由が薄いのなら、
もっとシンプルにして構わないはずだ。

あいさつ運動もそうだ。
毎朝、わざわざ学校へ出向いて立つより、
登校班で自然と交わす「おはよう」のほうが、
ずっと生活に馴染んでいる。

続けるために無理をする活動より、
暮らしの中で自然に身についていく習慣のほうが、
子どもにとって本物だと思う。

だから私は、
PTAという仕組みそのものを
“未来に必ず残すべきもの”とは感じていない。

必要なら別の形にすればいいし、
本当に意味のある活動だけを選び取ればいい。

子どもたちの未来が、
もっと軽やかで自由であってほしい。
そのためには、
今の私たちが小さな声でもいいから、
「これは違うかもしれない」と立ち止まることが
大切なのだと思う。

手帳に書いた「変えるもの」「続けるもの」のページ。
あれは、ただのメモじゃなくて、
未来へそっと橋を架けるような気持ちだった。

子どもたちには、
“昔からあるから”ではなく、
“今に合っているから”選ばれた仕組みの中で
安心して育ってほしい。

そう願いながら、静かにページを閉じた。

今日も小さな養生を。



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Wrote this article この記事を書いた人

ミカ

手帳と暮らすミカです。 薬剤師・和漢薬膳師として、心と体の「めぐり」を見つめながら暮らしています。 40代を迎え、心や体の声に耳を澄ます日々。 手帳を開く時間は、私にとって小さな養生であり、静かな儀式です。 ここでは、ほぼ日手帳に綴る日々の出来事や心の揺れを通して、 「人間らしく生きる」ためのヒントを探しています。

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